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公廨とは、原は官舎の事なるお、転じて官含の用度物の事とす、而して其用度に供するには、之お出挙して、其利お以て充て、亦以て官人の俸にも充つるなり、菅人の俸に充てしは.京官に在りては、文武天皇の慶雲元年に、公廨禄お式部省、大学寮、散位寮に給せしお以て始とす光仁天皇の宝亀六年に、京官の薄禄なるお以て、諸国の公廨四分の一お割きて、京官の俸お益したり、而るに其毎人の所得、多き者は千銭お出でず、少き者は百銭に過ぎざるお以て、尋で罷めたりしが平城天皇の大同三年には、普く諸司に給し、延喜の雑式に其分法お載せたり、其法たる、諸司に於て其公廨物お、三年お限りて出挙し、其利お以て本として更に出挙し、其利お長官以下史生に至るまで、差お立てヽ配分し、三年の後に其本お其司に返納するなり、意ふにこれは並に稲にあらずして、銭お以てせしならん、而れども内官公廨の事は、載籍に寥々たるお以て、詳に之お知るに由なく、且つ延喜式の後には、絶えて見る所なし、才に准三宮の勅に於て、丙官三分の名あるお知るのみ、されども是は外官に、準じて立てたる名なるが如し、外官の公廨は、尽く稲お用いる事にて、本は国儲より起れり、聖武天皇の神亀元年に、正税稲お割き、出挙して利お取り、名けて国儲とし、朝集使等の粮食に充てしが、天平十七年に、国儲お停め、始て公廨お置けり、国の大上中下に従て多少の差あり、是お以て出挙し、其利お以て先づ官物の欠負未納お塡備し、次に割きて国儲とす、但し此時既に官吏の俸に充てしならん、〈但し大宰府にては、是より先きに既に公廨稲お官人の禄に充てたり、〉桓武天皇の延暦九年の勅に、国司等が欠物お塡せずして、猶ほ公廨お得て、天平の格に依らざることお誡めたるお以て見るべし、其勅に新欠は当年の公廨お以て塡し、旧欠は毎年率お立てヽ償はしめたり、又淳仁天皇の天平宝字三年に、諸国に常平倉お設け、公廨お割きて穀お輸さしめ、桓武天皇の延暦二十二年には、国儲の数お定めて公廨の内より割き、嵯峨天皇の弘仁二年には、河内国の公廨の息お割きて、其国の造堤所の食料に充てたり、又官人の俸料とするに就きては、孝謙天皇の天平宝字元年に、長官以下の分法お立てたり、而して其守は国の大小に依らず皆六分お得たりしお、後には大上国の守のみ六分にして、中国は五分、下国は四分としたり、此分法は姑らく大国の法に依りて言ふときは、大国は守六分、介四分、大掾少掾各●、三分、大目少目各、二分、史生三人各●一分、博士一分、医師一分、合計二十五分なれば、若し当年剰る所の公廨稲十二万五千束あれば、二十五お以て之お除し、一分の人は五千束お得、二分の人は一万束お得三分の人は一万五千束お得、四分の人は二万束お得、六分の人は三万束お得るなり、官員に増減あるときは、二十三分とも二十七分ともして、其内の六分四分等お得るなり、上中下国も之に準ず、さて其一分は大率幾何なるかと雲ふに、淳仁天皇の天平宝字四年の勅に、対馬島の史生の年粮お二千五百束とせり、穀とすればに百五十斛、舂きて米とすれば百二十五斛なり、是れ対馬島の一分の年粮なり、又仁明天皇の承和十一年の官符に、陸奥国の国司鎮官の一分の人の公廨お五千三百二十束とせり、是れ穀とすれば五百三十二斛にした、舂きて米とすれば二百六十六斛なり、更に陸奥国の禄物の価法に依れば、五千三百二十束の稲は、絹三十三匹、糸三百五十四句、綿四百九屯、調布百六端、庸布百七十七段、鉄三百八挺に該る、是れ陸奥の一分の公廨なり、又延喜の主税式なる、志摩国の史生の公廨料の穀、七十五石なるに依り考ふれば、七十五石の穀は稲七百五十束にして、舂きて米とすれば三十七石五斗なり、更に志摩国の禄物の価法に依れば、七百五十束の価は、絹十二匹半、糸七十五句、綿百二十五屯、調布二十五端、庸布三十七段、鍬二百五十口、鉄百七挺なり、是れ志摩国一分の公廨料なり、地に肥瘠あり、国に遠近あり、歳に豊斂あり、世に前後あり、物に多少あり、価に貴賤ありて、一律お以て推すこと能はずと雖も、亦以て其梗概お知るべし、さて此公廨の分法に依りて史生お一分と雲ひ、目お二分と雲ひ、掾お三分と雲ふなり、又前任後任交替の時に公廨お処分する法は、孝謙天皇の天平宝字元年に始て見えて、其後屡、沿革あり、又内官の人の外官お兼ぬるお以て栄とするは、公廨お得るお以てなり、猶ほ政治部貸借篇お参照すべし、
対馬の島司には公廨お充てずして、代ふるに年粮お以てせり、猶ほ志摩国司に公廨料お給するが如し、其年粮は、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後の六国より、毎年穀お以て漕送す、但し防人の粮も此内にて給するなり、