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帳内は雄略天皇紀に始て見え、資人は崇峻天皇紀に始て見えたり、然れども皆史筆の追書に係りて、当時既に此称あるにあらず、且つ帳内お訓じてとねりとし、資人お訓じてつかひびととせるも、強て其別お立てたるに似たり、実は並にとねりと呼びしならん、故に又舎人と書せる者あり、今大宝の令に依りて考ふるに、帳内、資人は並に防衛駆使に供する為に賜ふ所なり、而して親王に、品階に依りて賜ふお帳内と雲ひ、五位以上の王臣に、位階に依りて賜ふお位分資人と雲ふ、是れ其人に従ひて称お異にせるのみにて其実は一なり、又職分資人あり、官職に依りて賜ふ所にして、大臣、納言に止まる、親王にして大臣たれば、亦職分資人お賜ふ、職分資人は、致仕すれば其半お減ず、位分資人は、嬪以上の外は、女は減半して賜ふ、外五位は、原は内位と同等なりしお、聖武天皇の神亀五年に、大に其数お減じ、而して女の外五位お以て男に同じくせり、凡て帳内、資人は、蔭お有するものあり、位お有するものあれども、若し本主の意に称はざるときは、其本主は位階の高卑に依りて或は笞し、或は杖することお得るなり、
帳内、資人お取るに其法差あり、帳内は六位以下の子及び庶人お取り、位分資人は外八位以下の子及び庶人お取る、而して職分資人は内八位以上お取ることお得文情願する者あるときは、外散位の六位、勲七等以下は、帳内及び職分資人に充て、七位以下の者は位分資人に充つ、然れども帳内資人は防衛の為にて、騎射膂力の人お要することなれば、辺要国の人お以てすることお得ず、並に課役お蠲かるヽお以て、本貫勘籍の解文お待ちて、式部にて判補す、其選限は文武天皇の制令の時に八考とし、慶雲三年に六考とせり、而るに聖武天皇の神亀五年に、外五位の人の資人に限り十考としたるお、仁明天皇の承和六年に至り、令条に拠り八考とす、総て考満に至り、本主其行能功過お量り、式部に報じ、三等の考第お立てヽ黜陟す、而して皆外位に叙すべきお、其才用いるべくして、貢挙して得第するときは内位に叙す、又理務に堪へたる者は、選限の満ちたる時、本主の請あれば内位に叙す、又本主亡するときは、期年の後に皆式部に送る、若し長上に任ずるときは、改めて内位に入れ、分番に補するときは、其考満の日に内位に叙す、又職分資人は本主亡し、及び理お以て解官すれば留省お聴す、留省は式部の散位にして、淳仁天皇の天平宝字二年には、其額数お定めたり、帳内及び、位分資人は、本主入道して其考六年に満たざれば、留省することお得ず、
又大臣、納言に、授刀資人お賜ひし事あり、是は特恩に出でヽ、其官に居る者の皆然るにあらず、授刀資人は授刀舎人寮の舎人なり、然るに其寮は屡、更革お経て、後に近衛府と為れり、因て授刀資人お賜ふは、近衛お賜ふと同じく、専ら防衛の為にするなり、猶ほ官位部授刀舎人寮篇お参看すべし、 防閣は、亦帳内、資人の類にて、元正天皇の養老三年に、始て五位以上の家に補せしが、聖武天 皇の神亀五年に廃せられたり、