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瓦礫雑考

飯節信又按ずるに、いにしへよりあさげ(朝食)ゆふげ(夕食)といひて、ひるげといふこと聞えず、中飯は後世の事なるべし、海人藻芥に、毎日三度の供御は、御めぐり七種、御汁二種也、御飯はわりたる強飯お聞召也と有、〈後世も、供御はこはいひとみゆ、〉武家の中飯は無下に近世のこと也、武者物語に、〈○中略〉また室町殿日記、飯の論に付きて打果す事の段に、瓊長老の家中に市村喜平次と雲ふ侍ありけり、朝飯お侍ども百人ばかりおし並て喰けるに、喜平次いひけるは、二合半の食は武家に定まる所、〈○中略〉雲々とあり、新武者物語に、人の食物は朝暮弐合五勺づヽ然るべしと、滝川左近将監積り定められしといへるは誤なり、一日五合の食は滝川の某に始りしにあらず、又おあんものがたり〈此おあんといふ老女は、完文年中歳八十にて終はる、〉に昼めしなどくふといふ事は、夢にもないこと雲々とあり、又ひるげといふも古には聞えざれ共、狂言記つたう山伏にその言見えたり、〈これも、旅山ぷしと、柴かりとのことにて、皆かせぎはたらく物のくふ也、平食には非じ、〉又籠耳といふものに、〈貞享四年印本〉夕飯喰ふさへ仏はいましめて、非時となづけ給ふ、まして昼食くふ事、仏の御心にたがひたる事也、されども大工屋根葺すべての職人、冬の短日といへども、極めて昼食おくふ、然らば職人はなべて仏の罪人にして、後の世もおそろしき事なるべけれど、ついに職人の地ごくといふ事お聞ず、中食くはぬ武家の仏になりたる証拠もなしなどいへれども、此頃は武家も中食くはぬ事なきにあらねど、隻そのかみのさだめおかくいへるなめり、武家もと二食にはあれど、軍陣その外骨おりはたらく時は、一日五合の限にはあらぬなるべし、又いにしへすべて二食なりし時も、さの如く骨折るものは中食なくてやあるべき、枕草紙にたくみの物くふこそいとあやしけれ雲々、東おもてに出いて見れば、まづもてくるやおそしと、しる物とりてみなのみて、かはらけはつひすへつゝ、つぎにあはせおみなくひつれば、おものはふようなめりと見るほどに、やがてこそうせにしか、二三人いたりしものみなさせしかば、たくみのさるなめりと思ふ也、あなもたいなのことゞもや、とあるも中食なるべし、いかにといはゞ、朝夕は物いそがはしき折なるに、大工等が飯のくひやうなど、かく細やかに見おらむことあるまじければなり、