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神明憑談

神道忌獣肉乎之考すべて獣肉お食せず、五辛お忌むは、空海等の両部お以神道お説より、仏法の殺生戒おさしこみ、慈悲の行に帰せんとすれども、魚蝦までには及しがたく、大なる物お殺ざらしむ、牛肉鹿肉お食することは、上代会て穢とせず、之お忌は仏法行れて後のことなり、〈○中略〉春日祭に獣おかけ、西宮神事鹿の塩漬お供し、即其村お鹿塩村と雲ふ類、今時其通にて穢とせず、諏訪の神許玉ふとも天神地祇の嫌ふことならば、いかでか其許の箸の能あらんや、人は即神霊の社にして万物の長たり、天之がために山海の食品お生ず、好て物お殺すは不仁の甚きなれば、必ゆるすべからず、用之益あらん時は、猪鹿共に食べし、食之神代の風なり、天其猪鹿お生ずるに、手足に軽健の力お与ふ、人のために命お遁しめん料なり、之おみだりに捕へて美味の設にすることこそ、天に憎れ神に容られざるの端なるべければ、其功能お求めて、人のために助けとならんに於ては、神の賜何か過之や、これおとヾめ玉ふ始は、日本書紀天武天皇四年四月庚寅、詔諸国曰、自今以後、〈○中略〉四月朔以後九月三十日以前莫置比満沙伎理梁、且莫食牛馬犬猿雞之宍、以外不在禁例、若有犯者罪之雲雲、神代に不忌之、人皇に至て三十九代持統天皇まで此制なきに、四十代天武天皇に至て、夏秋は人の性に合がたきお以止之、且耕作の水用のため梁おも禁じ玉ふなるべし、続日本紀聖武天皇天平十三年二月戊午、詔曰、牛馬代人勤労養人、因滋先有明制、不許屠殺、今聞国郡未能禁止、百姓猶有屠殺、宜其有犯者、不問蔭贖、先決杖一百、然後科罪、誠に牛馬は人用お扶る物なれば、此詔旨宜なり、然れども猪鹿は制の限にあらず、其証文は、続日本後紀仁明天皇承和十三年正月庚寅、散位従四位上伴宿禰友足卒、伝曰、友足為人平直、不忤物情、頗有武芸、最好鷹犬、与百済勝義王同時猟狩也、但其用心各不同耳、勝義王獲鹿、不必分其肉、友足献御贄、余偏遺諸大夫、一臠不留雲々、是お以天子も猶鹿肉お食し玉ふことお知べし、