[p.0040][p.0041][p.0042]
今昔物語
十五
北山餌取法師往生語第廿七今昔、比叡の山の西塔に延昌僧正と雲ける人の、未だ下臘にて修行しける時に、京の北山の奥に独り行けるに、大原山の戌亥の方に当て、深き山お通けるに、人里や有ると思て行くに、人里も不見えず、而るに西の谷の方に倣に煙お見付たり、人の有る所なめりとて喜び思て、匆て歩び行く、近く寄て見れば、一の小さき家あり、寄て人お呼べば、一人の女出来り僧お見て、此は何人ぞと問へば答へて雲く、修行者の山に迷ひたる也、今夜許宿し給へと、人家の内に入れつ、僧入て見れば、柴お刈て積置たり、僧其の上に居ぬ、暫許有て外より人入り来る、見れば年老たる法師の、物お荷ひて持来て打置き奥の方に入ぬ、有つる女出来て其結たる物お解き、刀お以て小さく切つヽ、鍋に入れて煮る、其の香臭き事無限し、吉く煮て後取り上て切つヽ、此法師と女と二人して食ふ、其後小さき鍋の有るに水お汲入れて、下に大きなる木お三筋許差合せて、火お燃やし立て、此の女は法師の妻なりければ妻夫臥ぬ、早う馬牛の肉お取り持来て食ふ也けり、奇異く餌取の家にも来にけるかなと怖ろしく思て、寄り臥て夜お明さむと思ふに、後夜に成る程に聞けば、此法師起ぬ、涌し儲たる湯お頭に汲み懸け沐浴し、其後に別に置たる衣お取て著て家お出ぬ、恠び思て僧窃に出て、法師の行く所お見れば、後の方に小き菴有り、其れに入ぬ、僧窃に立聞けば、此の法師火お打て前に灯し付て香に火お置つヽ、早う仏の御前に居て、弥陀の念仏お唱て行也けり、僧此お聞くに、此る奇異き者と思つるに、此く行へば極て哀れに貴く思ひ成ぬ、夜明け離るヽ時に、行ひ畢て菴お出づるに、僧値て雲く、賤人と思ひ奉つるに、此く行ひ給ふは何なる事ぞと、餌取の法師答て雲く、己は奇異く弊き身に侍り、此の侍る女は、己が年来の妻也、亦可食き物の無ければ、餌取の取残したる馬牛の肉お取り持来て、其れお啖て命お養て過ぎ侍る也、〈○下略〉鎮西餌取法師往生語第廿八今昔、仏の道お修行する僧有けり、六十余国に不至ぬ所無く行て、貴き霊験の所々お礼ける間に、鎮西に行き至にけり、国々お廻り行きける程に、にして忽に山の中に迷て人無き界に至ぬ、人里に出む事お得むと思ひ歎くと雲へども、日来お経に更に出事お不得ず、而る間山の中に一草菴有る所お適に見付たり、喜て近く寄て其の菴に宿せむと雲に、菴内より一人女出来て雲く、此は人の宿り可給き所にも非ずと、僧の雲く、己修行する間、山に迷身疲れ力無し、而るに幸ひ此に来れり、譬ひ何なる事有と雲とも宿べしと、女雲り、然ば今夜許宿り給へと、僧喜て菴に入りぬ、〈○中略〉此の持来たる物共の食お見れば、牛馬の肉也けり、僧此れお見るに、奇異き所にも来にけるかな、我は餌取の家に来にけりと思て、夜には成ぬ、可行き所無ければ隻居たるに、臭き香狭き菴に満たり、穢く佗き事無限し、