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安斎随筆
前編七
一吾国忌肉食 源元珍〈柏崎永以〉日本風土集説雲、徳川神君駿府御隠居の日、彼地浅間神主総社宮内某に問て宣はく、当社の産子として産土神の甚嫌はせらるゝ神誡とて、決して獣肉お食する事お忌、猶山一つあなたの信濃の諏訪の社にては、彼神の許可として、産子平常に獣お食し、剰其社の祭礼には、七十二の鹿の頭お備へ祭ると雲、此各別の様子は如何、宮内答て申さく、上古は諸国専ら獣お食したる事、既日本書紀に挙し如し、然るに凡長門国萩のあたりより陸奥津軽の地に至て、此日本の正中お山一筋に続て南北お隔たり、是故に其山の東南の諸国は甚温暖の国也、又其山の西北の諸国は甚寒冷の国也、されば東南の方は人民漫に獣肉お食すれば、蒸熱して悪病お煩ふ事、古今眼前に顕然たり、是はこれ公義の制禁として下知せられんに、東南の地は、肉食には不合ものゆへ、食すれば悪病お受く、日本は小国なれば、ひたすらに獣お殺せば、其類尽て民用お闕く、必ず食する事勿れと、厳密の公命出たりとも、一文不通の土民其口の為に、其身お抛て、中々其禁制お守る事あるまじく候、然るに其産土神の嫌ひ忌みたまふと雲へば、さすがに人情の自然、正路の思より他人の食するお見ても爪はじきして、公儀の掟、父母の戒よりも心より能く恐れ慎むゆへ、いつとなく神制と称して忌む事厳重也、適九国のあたり獣食不忌土風ありといえども、其忌む方の宮社国人に向ては、口お覆ふの恥情あり、又かく山の西北はいづれも寒国、殊に信濃は別て厳寒の地、又当国富士の根方なども無双不毛の地、至極冷凍にして、此民常に食に乏し、是等の土地剰魚物お闕く、されば不得止事して獣肉お食し候、因滋其産土神も祭祀に獣肉お享けたまひ、其産子も神の制禁忌もなし、是皆神慮其土地に応じ給ひ、自然の御恵也と答申たる時、神君甚感心し給ひ、いかにも其方の申す処、是寔に日本肉日(しヽび)お忌むの真理也、別して恐れ慎むべき事也と仰られしと也、