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桃源遺事

西山公〈○徳川光国〉御逝去の年、御病中に馬場左五右衛門高道、其外御前に相詰候者どもに仰られ候は、むかし世に汁講といふ事あり、その様子は客お請候とては、其客ども銘々に飯おめんつうといふ物などに入携へ来り、亭主は唯汁一色のみこしらへ、能時分汁お鍋のまゝ座敷へもち出、うち寄賞味もてはやして、此外には何のもてなしと申儀一つもなけれども、興に入咄し候由、されば倹約の義はもとより、諸士及び百姓町人まで堅く相守るべき旨、度々油断なく申渡事にて候得ども、治世ゆえにやまゝ奢り、客受候せつは、分限に過て甚だ美麗おいたし候由相聞え候、それに付大森典膳〈信一、西山にての御家老なり、〉汁講お再興仕り、其方共も順々に興行仕候者、自然と城下および、領内にも広まり、美麗成る振舞相止み申べきかと覚し召候由仰られ候、依之御近臣ども、仰のごとく汁講お初め申筈にいひ合候処に、西山公御病気重らせ給ひ、間もなく御逝去なされ候故、汁講一度も興行いたさず、残念のよし左五右衛門度々申出し候、