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慶長見聞集

鰒の肉に毒ある事見しは今知人四五人同道し、愚老〈○三浦浄心〉所へ尋来り給ひぬ、われ出逢、たまさかの御出、何おかもてなし申さん、あたらしき肴はなきかと、ひとりごといへば、客の中に一人申されけるは、亭主は我等へ馳走ぶり見えたり、余の物は無用、皆々鰒汁好物なれば、肴町に鰒有べし、たゞ鰒汁よといへる処に、又一人鰒汁のもてなしならば、鶴白鳥にもまさる成べし、たゞ鰒のあつ物よと口々にいへり、愚老聞て、鰒汁安き御所望也、然共援に物語の候、我知人に中嶺源右衛門と雲人、常に鰒汁お好みしが、去年の夏鰒の肝にあたつて血おはき忽死たり、愚老それお見しより鰒はおそろしく候、又当年伝馬町にて、彦三と申者鰒お好みしが、有時干鰒おくひ死たり、扠又此程こあみ町にて鰒おくひ、親子けんぞく七人家一つにて死たり、是お見しよりわれおくびやう心にや、鰒の沙汰お聞は身の毛よだつ也、此度鰒汁おばゆるし給へと申ければ、其中に竹田庄右衛門と雲年比五十計の老士聞て、亭主の申処理りしごくせり、唯今思はずしらず鰒のさたありしに、若き衆たはふれ事に所望なり、我も此已前人の相伴に鰒汁おくひつるが、くふうちにも心にかゝり、食して後も何とやらん忘がたかりし、鰒お食しては酒おのみたるがよきと聞つれば、われ下戸なれ共、酒お多くのみたりしに、却て酒に酔て胸とゞろく、是は鰒故か酒故かと、しばしが程心元なく思ひつれば、酒さめたり、鰒食しては誰がおもはくも同じかるべし、然るときんば客に鰒おもてなす亭主は無分別者成べし、鰒無用と申されければ、若き衆是非のさたなし、援に或老人此物語お聞ていひけるは、医書に鰒は大温、肝に毒ありとしるしたり、然るに去年通町にて人々寄合鰒料理せしが、此鰒人ためならずとて、手づから生鰒おあらひ、肝お取て捨、血おあらひ、骨迄も切捨て、みところ計およくこしらへ、にごり酒に一時ひたし料理して、八人寄合しよくせしに、其内五人は即時に死、三人は十日ほど病て後本腹す、此人々町にても人にしられたる人也、鰒おあまたくひ死たると沙汰あらば、かばねの上のちじよく成べし、時のくひちがひとてさたもせず、上代と末代は人の性も違ふ故か、肉計くひて人多く死する事必定なれば、鰒お食して益有まじく、かくおろかなる人お、仏はたとへて多く経に聱牛尾お愛するがごとしと説れたり、〈○中略〉天下にかへざる大切の命お持て、いける間よろこばす、毒魚と知てふくすは、世のしれものなりと申されし、