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嬉遊笑覧
十上飲食
庖丁汁、笈雉随筆、日向より薩摩に至る処、やがて夕餉して、平温飩に茄子やうの物おうすき味噌汁に煮たるなり、亭主雲、是は此国の一調味なり、卑き品なれども頗拠あり、昔此辺大友宗麟領せられし時、俄に菊池肥後守来会あり、取あへずせし事なれば、蛤の腸お汁に調じて出さむとす、然るに菊池思ひの外多人数にて、其用意足らず、いかゞせんといふに、人教へて如此作らしめて中お足したり、いづれも分がたかりし、それより名おほうてう汁と呼も、蚌腸と申ことのよしお誤りて庖丁汁と覚えしと語る、其製至て無造作なり、小麦の粉お塩おすこしやわらかめにして水にて練り、暫らく布など覆ひて寝さしむれば粘るなり、其内に醤汁おうすく煮て、茄子瓜の野菜おも入置、かの粘りたる粉お手の内に少づゝ丸め持て引のばせば長く延るなり、それおよき程づゝに引きり、直に汁の鍋に入、手なれしものは、甚平らに延し、平うどんのやうにするなりといへり、此説附会なるべし、是むかしの入麺なり、又庖丁の名は享雑の誤りなるべし、梅窻筆記に、享雑とは今の雑煮餅のことなり、御厨子所預紀宗国記、明応六年十二月七日〈取要〉三献公家衆、ぼうざうとありといへり、今の雑煮餅と定むるもいかゞなり、何にてもくさ〴〵煮たる故なるべし、然らば雑炊と雲も似たることにや、其ながら雑炊は野卑なるものなるべし、上杉上州平井に在城のとき、出仕の人の下部共、平井の民家に充満し、誰がし初るともなく、菅お引て手ずさみに蓑お織て家主にとらすれば、家主よろこび、大鍋おいろりにかけて湯お炊ば、下部共豆粟菜かぶら何にても一品づゝ打込て煮る故に、これお雑炊と雲へりとなり、