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鳩巣小説

一隻今御料理の間と申間有之候、此間台徳院様毎度出御被遊、御咄の相手に成候者、大方極り有之候、其時分俄に鯉お献じ申者有之、幸何某に庖丁仰付られ御覧なされ候、鯉の庖丁は、鯉の脊お庖丁の裏にて三度撫候て切候と申候、撫申時鯉はね候てまな板より落申す処お、まな箸取直し鯉の両眼おひしと指候て、其まヽ庖丁いたし候、満座興に入候て、其手のきヽ申お感申候、上様にも御覧なされ候へかしと存じ候へども、折節膳の脇お御覧なされ、右の首尾御覧不被成やと各存候て残念がり申候、偖御前にて一統に其儀お申候お、何卒御賞美も有之様にと色色執成候へども、とかく御返答無之候、其後右の鯉御料に相成、風味各別に御座候と、皆々感じ、其上にて又先刻の庖丁はさても見事なることヽ申候、其時上様仰られ候は、何れも先刻より庖丁のことおひたと申出候は、予に賞美もいたし候やうにと存候てのことヽ被思候、け様の小きことに賞は不行ものに候、総て賞罰はつり合申さねば、賞罰ともに立不申候、此庖丁お賞し候は害も無之ことに候へども、左候はヾ重て又鯉お取おとし不調法なる時、罰いたさねばならず候、いづれも平生心得あしきと被仰候由、作恐御猶に奉存候、