[p.0323]
常山紀談

三好家滅し時、料理庖丁の上手と聞えし坪内何がしといへる者、生どりとなりしが、放し囚にして有しに、年経て後、菅谷九右衛門に賄申ける市原五右衛門、坪内は鶴鯉の庖丁は雲にも及ばず、七五三の饗膳の儀式よくしれる者なり、其上子ども両人は既に奉公申候へば、ゆるされ候て、厨の事お司らせ申さんといひけるお、信長聞きて、明朝の料理させよ、其の塩梅によらんとなりしかば、則坪内おして膳お出させけるお、信長食して、水くさくしてくはれざるよ、それ誅せよと怒られしかば、坪内、畏承候、今一度仕らん、それにても御心に応ぜずば腹切んといへば、信長許容せられけり、さてその翌日膳お出しけるに、味のうまき事殊の外によかりければ、信長悦て、禄あたへられけり、坪内、辱き由申して、さて昨日の塩梅は三好家の風なり、けさの塩梅は第三番の塩梅なり、三好家は、長輝より五代公方家の事おとり、日本国の政おとりはからひぬれば、何事もいやしからず、其好む所第一等の塩梅お昨日奉りければ、いやしみ給ふ事ことわりなり、けさの風味は、野鄙なるいなか風にて候へば、御心に入たるなりといひければ、聞人信長に恥辱おあたへたる坪内が詞也といひあへり、