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嬉遊笑覧
十上飲食
江戸にて料理茶屋といふものむかしはなし、〈寛文の頃迄もすくなかりし、寛文八年申の十月中、町中諸職人諸商人共、茶屋拝借し座敷おかり、より合相談仕候こと相聞候、自今已後左様の者、ざしき借候者共、借し申間敷候、凡ふれごと江戸中お南北中お分ち、月番にかはる〴〵三げんより触出す、此時此方中通〉〈お触るに、茶屋一軒もなし、〉西鶴が置土産、〈元禄六年板〉近き頃金竜山の茶屋に、一人五分づゝの奈良茶おしだしけるに、器物きれいに色々とゝのへ、さりとは末々のものゝ勝手のよき事となり、中々上方にもかかる自由なかりきとあり、これは寛文のころ、けんどん蕎麦切出来て、それに倣ひて慳貧飯といふも出たり、江戸鹿子、食見頓金竜山、品川おもだかや、同所かりがねや、目黒と并び載、又奈良茶堺町ぎおんや、目黒かしはや、浅草駒形ひものや是なり、〈○中略〉江戸鹿子に、奈良茶は別に出して、金竜山には食けんどんとあり、おもふに他の奈良茶は、今の如く一ぜんめしにて、一椀づゝの定なるべし、金竜山は其後よき料理したりと見ゆ、こはさきの奈良茶やとは異なる歟、衣食住の記に、享保半頃迄、途中にて価お出し食事せむ事、思ひもよらず、煎茶もなく、殊に行掛りに茶屋へ料理いひ付ても中々出来せず、其頃金竜山の茶屋にて、五匁料理仕出し、行がゝりに二汁五菜お出す、人人好みに随ひ、ことの外はやる、其後両国橋の詰の茶屋、深川洲崎、芝神明前などに、料理茶屋出来、堺町にて一人前百膳といふもの出きてより、是又所々に出たり、湯島祇園豆腐、女川菜飯、居酒やの大田楽、湯豆腐始る、宝暦の始より、吸もの、小付飯、大平、しつぽくのうまみ、金竜山の料理は跡なく、夫より宮地端々おびたゞしく、わけて明和のころより、辻々に軒お并ぶる、〈安永の頃より辻売の油あげ、焼肴、餅菓子、唐菓子、一夜ずし、くさぐさ筆に及ばずと雲り、〉明和八年ごろ、深川すさきに、塩やき場お開き、両国橋づめと雲、今もある中村屋、洲先は升屋宗助なり、是はするがの浅間の坊叔阿弥と雲ものになれりとか、