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皇都午睡
三編上
貨食屋(れうりや)などは、年々歳々の流行あれば、然と定規には言難けれど、当時名高きは深川八幡前平清、八幡社地に二軒茶屋、向ふ島に大七、武蔵屋、平岩、〈昔葛西太郎と雲し也〉小倉庵、今戸に金波楼、大七出店川口、〈お直とて通り名也〉橋場に柳屋、尾花屋、〈深川仲丁の女や援に移、〉甲子屋、千束に田川屋、〈駐春亭とも、〉両国柳橋に梅川、万八、是は書画会舞ざらへ等の席玄冶店に杉板、援らお上の分として、中分に繁栄なる料理屋頗る多し、青物丁讃岐屋、下谷の浜田屋、同雁鍋、王子の海老屋、扇屋、雑司谷に茗荷屋、浅草に万年屋、鰻屋にて極々上々筋違見付外深川屋、駒形の中村屋、鳥越の重箱鰻、浅草奴鰻、水道橋鰻屋、南で狐鰻、尾張丁の鈴木、茅場丁の岡本、霊岸島の大黒屋、新地の荒井、親仁橋大和田、人形町の和田、茶漬屋は通り山吹宇治里、笹岡、両国にて五色、淡雪、浅草に蓬萊、菊屋など、書出しては際限なし、此余そばや、居酒屋始め、名代の鮓屋、てんぷら屋など数へる時は、一丁内に半分余は食物屋なり、余が三都の見立に食の第一に見立しが、中々食物是程自在なる所は、見ぬ唐土にも有まじと思はるゝなり、扠立延(たちのび)たる貨食屋(れうりや)には、京摂の如く女給仕に出、是お仲居とは呼ず、女子衆なり、御趣意後なくなりたれど、女郎屋の欠引する女お軽子と雲し也、町々の仲衆お江戸にては車方お車力といひ、荷お運ぶ者お軽子とも雲なり、扠も中より下の料理屋、煮売屋、居酒屋、蕎麦や、芝居茶や、総一統に女はつかはず、皆荒男の若い者が運ぶことなり、見たる処、女気なけねば我雑(がさつ)の様なれ共、其男皆物いひは優(やさ)しく叮嚀なり、中にも芝居茶やの桟敷土間へ案内、或ひは食物お持運ぶも皆若い者の役にて、大坂のお茶の子などゝ違ひて、気転よくきゝて弁利甚よろし、