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嬉遊笑覧
十上飲食
鮧(なまづ)魚は寛永の料理集にも載たれど、是は近在にあるお広く挙たる物なり、大和本草に、箱根より東に是なしと有、これも又誤りなり、日東魚譜に、昔は江戸になまづなかりしが、享保十四年九月、井頭より水溢出たることありし、其より鮧魚出来けるよしみゆ、増補総鹿子に、往昔は此魚関東には曾てなかりき、享保年中より甚多くなれり、西国のなまづとは其形やゝ異なり、関東にては下品の人のみ食す、〈西国の産と異なりといへるは非なり、いづくにも色のかはれるあり、〉団魚お載せざるはこれもいと下品のものにて、売ことも希なりしにや、寛永料理集に、真亀は吸もの、さしみ、石がめも同といへる、真亀はすつぽんおいへり、浪花にてはもとより好て食たるものなり、諸艶大鑑、〈二〉世渡りとて丸魚(すぽん)突になつて、天満におはしける、其絵おみるに、やすおもて突て取なり、元禄曾我、伏見船の乗合にて、京の人と大坂の者と物争ひする処、大坂の人、料理したすつぽんがあるが、京人、くゝし鹿子や紅染は、都でなければならぬ雲々、京は其頃迄すつぽん食ふもの希なりしお知べし、諸芸太平記〈四〉元禄十五年板、遊女がことおいふに、たとへ納戸ではすつぽんの料理おまいらうとも、それはしりてがない雲々、又元禄十七年草子誰袖海に、京人江戸に下り居たる処、寒さは雞卵ざけにわすれ、すつぽんもくひならひ、雞のなき内はこれもましと雲々あるおみるに、下賤の食物なり、それより寛延四年の江戸鹿子新増迄は五十年に近きに、猶産物の内にかずまへいれぬは、鮧よりも劣りたるものにてありしなり、寛延七年草子伽羅女に、新地堀江の料理茶屋にて、鰻のかばやき丸亀(すつぽん)まいる雲々、難波にては、其頃うなぎと並び行はれたり、江戸は下手談義に、売卜者のことおいふ処、柳原の長堤に泥亀(すつぽん)の煮売と軒おならべと有、寛延宝暦の頃は、此体にて葭簀の小屋にて、今の山鯨の風情よりあさましき売物と見えたり、〈是故にや、今は価うなぎよりも貴けれど、よきうなぎやには是お売らず、〉