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善庵随筆

蕎麦は冷物ゆへ、脾胃虚弱の人に宜しから子ば、大小二麦と一様に常食に充つべき物に非ず、しかし土の肥瘠お論ぜず、一候七十五日にして実熟し凶荒の備には甚便宜なる故に、〈天工開物雲、蕎麦実非麦類、然以其為粉療飢、伝名為麦、則麦之而已、〉続日本書紀に、養老六年七月戊子、詔曰、今夏無雨苗稼不登、宜令天下国司、勧課百姓、種樹晩禾蕎麦及大小麦、蔵置儲積、以備年荒、又続日本後紀に承和六年正月七日、令畿内国司、勧種蕎麦、以其所生土地不論沃瘠、収獲隻在秋中、稲梁之外足為食也などありて、先王天下の国司おして百姓に勧種せしめ給へば、其後とても諸国にて蕎麦お種て、凶荒に備へ、二麦の助となせしかど、其頃は蕎麦掻餅、又は蕎麦焼餅に作しめ、食料に充しにて、今の蕎麦切などやふの物はなかりしに、塩尻に、そば切は甲州にて天目山へ参詣多かりし時、所の民参詣の諸人に食お売けるに、米麦すくなかりしゆへ、そばおねりてはたごとせし、其後うどんお学びて、今のそば切とはなりしと、あるにて見れば、最初は蕎麦掻餅或は蕎麦焼餅に製して、旅籠とせしが、後には温飩にならひて、湯餅と作せしとなり、西土にても農政全書に、王楨が農書お引て曰く、北方山後諸郡多種、治去皮殻、磨而為麪、焦作煎餅、配蒜而食、和名抄或作湯餅、謂之河漏、滑細如粉、亜于麦麪といふ、焦作煎餅、配蒜食之は、これ蕎麦焼餅なり、或作湯餅謂之河漏は、これ温飩にならひて湯に入れて、これお享るものにして、即ち喬麦切なり、但し温飩の如きは湯餅と作しめ食ふべけれど、蕎麦は湯に入て享れば、切々になりて片おなすべからず、因て思ふ当時二八蕎麦と雲て、蕎麦粉二分、温飩粉八分、八分と二分との調合にするは、温飩粉お多くして切れざるやふにせしにやあらん、〈今の人二八といふは、価のことにて、今蕎麦一膳お十六文に売るゆへに、二八十六文の義と心得るは誤なり、其頃は未だ諸品下直ゆへ、蕎麦の価も十六文にてはあるまじ、還魂紙料に、完文八年の頃、江戸の流行物お集めし短歌お載て、八文もりのけんどんや、又かる口男に〈貞享元年頃印本〉一杯六文かけねなし、むしそば切、鹿の子ばなしに、〈元禄三年印本〉蒸籠むしそば切一膳七文とあるにても、当時蕎麦一膳の価十六文にあらざるお知るべし、〉かく二八の調合にては、温飩に近く、蕎麦たる詮なければとて、新に蒸蕎麦といふものお工夫す、其製法は蕎麦粉お冷水にてよく溲(こち)合せ、麪棒にて按〓げ、ふたヽび棒に捲て、連に打つこと数遍、熨して、薄片となるお、挫して線となし、沸湯に入て洩上げ、冷水にて洗ひ、ふたヽび蒸籠に入れ、蒸して露気なからしめ、煎和の醤油お以て、大根の絞汁、山葵、海苔等お配して食ふ、西土の河漏はいかヾ製するや、此方の蒸麦とは、同じからざるやふに思はる、此方にては温飩に蕎麦切も、もと菓子に属して、菓子屋にては船切重詰にして売りしゆへに、菓子屋の杜氏は必らず蕎麦お打つ筈のものなり、今にこれお以て杜氏の巧拙お試るは、昔の余風の存せるなるよし聞及べり、