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玉川砂利
蕎麦の記〈日野本郷里正佐藤彦右衛門に出てあふ〉それ蕎麦はもと麦の類にはあらねど、食料にあつる故に麦といふ事、加古川ならぬ本草綱目にみえたり、されば手うち(○○○)のめでたき、天河屋の手なみお見せし事、忠臣蔵に詳なり、もろこしにては一名お烏麦といひ、そば切お河漏麪といふは、河漏津にあるゆへなりと、片便の説なり、詩経に爾お視るに蕎のごとしといひ、白楽天が蕎花白如雪といひしも、やがてみよ棒くらはせんの花の事なり、大坂の砂場そば(○○○○○○○)は、みせの広きのみにして、木曾の寐覚(○○○○○)は醤油にことおかきたり、一谷のあつもりそば(○○○○○○○○○)は、熊谷ぶつかけ、平山の平じいもおかし、大江戸のいにしへ、元禄より上つかたは、見頓蕎麦(○○○○)は浅草にのみありて、むしそば(○○○○)の価七文なりときゝしが、今は本町一丁目駿河町にもまぢかくありて、御膳百文、二八(○○)、二六(○○)、船きり(○○○)、らん切(○○○)、いも切(○○○)、卓袱(○○)、大名けんどん(○○○○○○)はいさしらず、うば玉の夜たかそば(○○○○○)、風鈴(○○)に至るまで、何れかみうとのたねにあらざる、高砂の翁そば(○○○○○○)、鎌倉河岸の東向庵(○○○○○○○○)、福山の蕎麦(○○○○○)は三階に上る、みの屋のそば(○○○○○○)は敷初に賑ふ、洲崎のざるそば(○○○○○○○)は深川にきこえ、深大寺そば(○○○○○)は近在に名高し、浅草のまきやそば(○○○○○○○○)も、大川橋の玄関構にしかず、正直そば(○○○○)の味は、念仏そば(○○○○)の有がたきにいづれ、池の端の無極庵(○○○○○○○)に、周茂叔が蓮おながめ、日暮のとねりやに若殿の駒お繋ぐ、その駒で思ひ出せし瓢箪屋(○○○)は、麹町の名家なれど、四国町のさる家(○○○○○○○)には及ばざるべし、道光庵(○○○)も名のみ残りて、称往院の禁制の、蕎麦門内に入る事おゆるさずもおかしく、小石川のそばきり稲荷(○○○○○○)も、茗荷屋の茗荷とともにわすれはてぬ、