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嬉遊笑覧
十上飲食
慳貪は唯俗に覚えたるやさしみなき意にて、一椀づゝ盛たるお、食ふ人の心にまかせて勧もせざるゆえなり、〈呉服屋の現金安売始りて、何くれの物みな其定になれり、大かた同時なるべし、〉其呼声にも一杯六文かけねなし、現金かけねなしといふこと、其頃のはやりなり、外に持運ぶに、膳お入る箱はけんどん箱なるお、やがてけんどんとばかりいひ、其箱の蓋の如きお、けんどんぶたといふ、大名けんどん(○○○○○○)といふは、一代男、女郎ども食好みする処、なま貝のふくらいりお、川口屋の帆かけ舟の重箱に一杯と、思ひ〳〵に好まるゝこそおかしけれ、〈一代女に、川口屋の蒸そばとある、其重箱なり、〉帆かけ舟は、諸大名の舟お五色の漆にて、絵にかきたるなり、〈西国の大名難波にて艤して出たつ故、その船ども相印お見習へり、〉大名けんどんの名はこゝに起る、今も此器残れるもの有て、好事のもの茶箱に用、小く長き形の筥なり、蒔絵は帆かけ舟のみにあらず、種々の模様有、又一種の箱あり、大にして四角なり、内にへだて有て、幅の狭き方に汁つぎの箱、辛み色々入、貞享の江戸鹿子に、提重とあるはこれらおいふ、後に忍びけんどん(○○○○○○)ともいへり、もと此筥どもは、うどんおも入たり、うどんは桶にて持運びしが、後には件の箱になりたれども、猶桶おも用ひしにや、俳諧三匹猿、これほどの広き住居に榾のかけ、どちへもつかずうどん一桶温故集来山が句、春雨やもらぬ家にもうどん桶、寛完政の末迄も、箱に盛て売しが、箱は今絶たり、後のうどん箱には、蓋なく模様なども絵かず、〈家の印などは付たるもあり〉そのかみの箱、大名けんどんとはいへど、麤末なる漆絵なり、青貝(みぢん)など蒔たるも有、江戸名物鑑、大名けんどん新そばや、二本道具の汁辛味、又忍けんどん薮入や二階へ二膳しのぶ山、