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百家琦行伝

桔梗屋於園安永の頃、東海道藤沢宿に桔梗屋といへる邸家あり、援に園といへる婢女ありけり、同国一の宮といへる処の農夫の子也、生質蕎麦切おこのみて、食する事おびたゞし、徒然草に見えたる、丹波の栗くひ娘の如くなり、米の飯麦飯などは嫌ひて食ず、唯蕎麦おもつて常の食とす、且蕎麦切お制る事、上手にして奇妙なり、かゝる異物なれば、縁うすくて夫なし、十八歳の春より風と此桔梗屋へ給事(はうこう)に来りけるが、援に相模の国大山の石尊とて、大己貴の命お祭りたる山あり、六月の始より七月の末までは、参詣の人おびたゞしく、殊に江戸人おほく登山しけるにぞ、道中の邸家も大いに繁昌して賑しかりける、いつしか這園が蕎麦お上手に制る事名高くなりて、江戸人おほく這家にやどり、園に蕎麦お制させて、喰ける事流行けり、園また蕎麦おしひすゝむる事上手にて、客人一椀くひ終るとき、園はるか這方よりまた一椀の蕎麦お投こみける、其蕎麦切あやまたず、旅人のまへなる椀の中へ落入こと奇妙なり、十人二十人の客にても、蕎麦お強侑るもの、園ただ一人にて、四方八方の客人のひかへたる椀の中へ投いるゝに、一つとして把外しほかに落る事なく、悉く椀の中に入て、いさゝかも畳の上などへ溢るゝ事なし、よく鍛錬したる者なり、たゞし園にかぎらず、相模の国は、殊に蕎麦お好む風俗にて、いづれの郷里の女にてもよし、蕎麦きりお客の椀中へなげいるゝ事お上手にす、別て這園は殊に上手にて、然も蕎麦お制るに大いに味ひよろしく、江戸も又他国にまさりて、蕎麦お好ところなれば、這桔梗屋の園が事お聞つたへ、故意たづねて這家にとまり、蕎麦お制せて夕餉の代となし、園が給事にて投こまるゝお面白がりて、おの〳〵競ひて、桔梗屋へやどりけるにぞ、太甚はんじやうして、外々の歇家(やどや)一人も客なきときも、這桔梗屋は五十人六十人も止宿客ありしとぞ、邸家のあるじも這園お家の福鼠と称して、よろづ心お用ひて、仕ひけり、斯の如く繁昌する事八九年、いつしか這家の妻妬忌する事おこりて、園にいとまおつかはしけり、是より後旅人の宿止も些くなりて、不繁昌となりけるにぞ、再般在郷おさがして蕎麦お上巧に制し、上手になげ入て給事する女お抱けれども、一向郷のごとくは流行ざりし、