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翹楚篇
一公〈○上杉治憲〉初て入部ましませし年より、民の辛苦お知し召す為、亦は旱つゞき雨つゞきには、田畠御覧の為に、鉄炮為持鳥打御野遊の御唱にて、度々野間へ出て、耕作の辛苦お見給ひ、或は民家に休らひ、何かれ御物語抔し給ひて、通らせ給ひしは常の事也、安永六年九月十九日の事なり、御城の北門へ老たる嫗来りて、御台所へ通ると雲、故お問ば、約束し参らせし刈納餅(○○○)〈かりあげ餅とは農家にて稲お刈仕廻たる祝とて、九月廿九日に門毎に餅つきてくらふお雲なり、〉お献ずると雲、されば御門々々滞なく通り、御台所へ出て、福田餅〈かりあげもちおまろめたるもの、名付てふくらもちといふ、福田の略語にて、祝たる名なり、〉一苞に、大豆粉一包お添て出しぬ、故お問へば、御門々々にて答し、しか〴〵のごとし、おの〳〵あやしみ思ひながら、其由言上に及ければ、扠は殊勝の事也、疾く披露せよとの御意にて御取上あり、飯酒の御手当あり、金子など給はり、厚く謝して帰し給ひしなり、其の故お推尋るに、御野間の時、夕つかたの事也、老たる嫗がいそがはしく稲取仕廻居たるお御覧じ、御家中諸士の振して御みづから持運び取、仕廻手伝はせ給ひて、此稲は何米なりと問給ひしに、餅米と答へ奉りしより、斯手伝たれば、さぞかりあげ餅おくれるにこそと、戯れ宣ひし事のありしお、公と知参らせし成べし、