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嬉遊笑覧
十上飲食
麩の焼とは、物の名とも聞えぬ呼やうなり、おもふに焼麩といふ物あるから、まがはぬやうにいひたるにても有べし、むかしは両度の彼岸の内、仏事には是お作りしとぞ、小麦の粉お水に解、やきなべの上にてうすくのべて、焼たる片面に味噌おぬり巻て用、これ上にみえたるけん皮やきなり、池田正式が狂歌合に、朝顔の花めづらしきふのやきもひなたに置ばねぐさくぞなる、嘉多言〈四〉女の詞に、麩の焼お朝顔といへるは、火にてあぶり侍れば、しぼむによて朝がほの花の、日にしほるゝ故に、名付そめしといへるは如何、花車なるやうにて、さもしき注なるべし、隻人のつくろはぬ朝の顔のやうなるとの心なるべしといへるは、焼たる面のきよらならぬなり、懐子集、明なば顔のみつちや見えましといふ句に、〈一歯〉玉くしげふたおして置麩のやきに、又鶏の空音と共に経よみてといふ句、〈弘永〉世に逢坂の関のふのやき、雍州府志に、麩のやきの巻たる形は、経巻に似たる故に、これお食ふに経幾巻お読といふとあり、是によりて経読といふに麩の焼お付たるなり、宝倉にも巻作麩焼称御経とみえたり、江戸にて助総といふは、総鹿子に麩の焼麹町十一町目助総と出、その家今にあり、〈十六五年前迄は、いと下品なる物なりしが、近頃は世の風につれて、これもいとよく製して、昔の風味〉〈にあらず、〉雍州府志に焼餅は米の粉に煉餡お包み、やき鍋にて焼たる、その形おもて銀鑣(○○)とも雲と有り、今のどら焼は又金鑣(○○)やきともいふ、これ麩の焼と銀鑣と取まぜて、作りたるものなりどらとは形金鼓(こんぐ)に似たる故、鉦(どら)と名づけしは、形大きなるおいひしが、今は形小くなりて金鑣と呼なり、同じ物なれども、四方お焼たるお餡お常のよりはよくして、みめよりと名付しは、浅草の馬道に始て出たり、享和のころにや、予が先入なども知りたる者の思ひ付なりし、そは程なく無なりしかども、其名うせず、所々にこれお作る、米の粉の焼餅、江戸総鹿子増補に、深川万年町雁金焼(○○○)とあり、是今にあれども当時ははやらぬものなり、焼鍋に遠雁の模あるにて焼たるなり、〈米の粉、なまの粉なる故、火よくは通らず、〉今其製は殊なれども、横雲(○○)といふは麩のやきなり、きぬた巻(○○○○)といふ類、助総より出たるものなり、〈其もとは、是も麩の焼なり、〉