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仮名世説
延宝二年、道久下人彦作が書ける国町の沙汰に雲、木挽町山村が芝居にて、〈○中略〉桟敷もそこ〳〵終日の慰にとてさげ重、せいろうの、色ことに艶なるに、塩瀬まんぢうさゝ粽(○○○○○○○○○)、金竜山の千代がせしよね饅頭(○○○○)、浅草木の下おこし米(○○○○○○○)は、〈木の下おこし米は、勢州山田の者、来りてこしらへるなり、則木の下のものなる故名付く、〉白山の彦左衛門がべらばう焼○○○○○、〈べらばう焼は、ふのやきにして、ごまおかけ其色くろし、〉八丁堀の松尾せんべい(○○○○○○)、日本橋第一番高砂屋がちりめんまんぢう(○○○○○○○○)、麹町の助三ふのやき(○○○○)、両国橋のちゞらたう(○○○○○)、〈ちゞらたうは、風味甚甘美なり、風邪おさり、気お散じ諸病に宜しとて、今専ら賞玩す、〉芝のさんぐわんあめ(○○○○○○○)、大仏大師堂の源五兵衛餅(○○○○○)、〈源五兵衛餅、おまんかたみにせしとて、江地の下俗賞玩す、その色黄にして丸し、おしゆん殊の外好物なり、〉武蔵の名物とりとゝのへ、さん敷に忍び入り、終日あく気色もなきは、桜姫となりし類之助お露のゆかりの玉かづら、心にかけて思ひ染めしなるべし、 按、延宝の比の江戸の名物こゝに尽くせり、此頃いまだ両国橋の幾代もち(○○○○)、金竜山の浅草餅、本郷笹屋のごまどうらん(○○○○○○)、鎗倉がし豊島屋の大田楽(○○○○○○○)、市谷左内阪の粟焼(○○)などはなしと見えたり、今にのこれるは、麹町の助総ふのやきばかりなり、洞房語園にふのやきの事みえしは、ふるき事なり、