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三養雑記

焼酎の害同じころ〈○天保〉きゝたるに、さる諸侯がたの馬の口とる下おのこ、すぐれて酒おこのみけるが、常の酒は酔ごゝちよろしからずとて、焼酎おのみ嗜けり、いづくにか行たりけん、かへるさの道のほどにて、ある酒店に入り、焼酎五合おもとめ、そこにてたゞ五口に飲ほし、まだことたらぬ顔つきなるお、その店に居あはせしものども、あつまり見てまことに見ごとなり、今五合ふるまはんはいかにといふに、かのおのこよろこびて、その五合おなにの苦もなく、また五口に飲みぬ、なほかたはらの人々のいへるは、もはやそのうへはいかにといふに、あらば飲たしといへりければ、その人々より合て五合おあたへければ、忽飲おはれるに、人々もあざみ興じて、世にはかゝる人もあるものかなといひのゝしるほどに、家あるじのきゝつけて、奥より立出つゝ、そのうへこそよも飲まじといふに猶あらば飲まんといふにより、あるじ又五合おあたへけるに、かたじけなきよしあつく礼お述て飲ほして、われはじめて十分に焼酎お飲たることよと、よろこびつゝかへりぬ、さてわが馬屋に帰りて、常にかはりたることもなかりしに、煙草吸に忽口より炎いづると見えしが、あつとばかりに身うちふすぼりて卒倒したりとかや、また南八町堀にひとり住のものゝこれも焼酎おすぐれて好みしが、ある夕ぐれ多く飲て、そのまゝうち臥したり、そのあした日高くさし升りても、かのおのこ起もいでざれば、おとづるゝにこたへなし、よつて戸おはなし、入りて見に、おりしも冬のことなれば、火炉の傍にうつ臥し、総身黒く焦てはて居たり、あたりに煙筒煙草入など、とりちらしつゝありしかば、これも煙草お吸たるものならんとぞいひし、焼酎は燃性のものなれば、多く飲たらん後は、煙草お吸ことは必しもつゝしむべきことにこそ、此話はある官医のまのあたり、見もし聞もせしことなりとかや、