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沙石集
六上
能説房之説法事嵯峨に能説房と雲説経師有けり、随分弁説の僧也けり、隣に沽酒家の徳人の尼有けり、能説房きわめたる愛酒の上戸にて布施物おもつて一向酒おかひてのみけり、或時此尼公仏事する事ありて、能説房お導師に請ず、近辺の者是おきヽて、能説房に申けるは、此尼公のさけおうり候に、一の難に水お入るヽによりて思程もなし、今日の御説法の次に、さけに水入て売るは罪なるよし、こまかに仰られ候へといふ、能説房各の仰られぬさきに、法師も存じて候、今日日来の本懐申聞くべしとて、仏経の釈は、たヾ大方ばかりにて、さけに水入るヽ罪障お勘へあつめて、少々はなき事までさしまじへて、思ほどにいひけり、さて説法おはりて、尼公其辺の聴衆まで、皆よびあつめて、大なる桶に酒お入て取出てすヽむ、能説房一座せめて、さかづきとりあげてのみけり、此尼公あさましく候ける事かな、さけに水いるヽは罪にて候けるお、しり候はざりけるよといふに、水のすこし入たるだによし、今日いかに目出たくあらんと思程に、能説房一度のみて、あといひければ、いかによかるらん、感ずる音かと聞くほどに、日来はちと水くさきさけにてこそ候つるに、これはちと酒くさき水にて候は、いかにと雲ければ、さも候らん、酒に水おいるヽは、罪ぞと仰られ候つる時に、是は水にさけお入て候とて、大桶に水お入て、酒お一鍉ばかり入たりける、此尼公興懐にしたりけるにや、又悪くこヽろえたりけるにや、