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名家略伝

売酒郎(○○○)売酒郎は何れのところの人といふことおしらず、将その姓氏おも詳にせず、自称して噲々といへり、あるひは彦四郎と通称す、年三十歳ばかりにして、京師白河の西街に僑居し、書画および篆刻お善くし、常に傭書おもてその母お養ふといへども、生計いと乏しく、賑澹することあたはず、こゝに於て自嘆じておもへらく、文雅はすなはち孝養に碍りあり、我はもと酒家の子なり、されば酒お售りて産業とし、わが親お養ひ、且安逸ならしむるにはしかじといひて、やがて橐中の書画おこと〴〵く散粥して、陶器酒具お購ひ求むるに、猶旧癖依然として、その買ふところの器具、みな唐山舶来の品物のみ、ことに酒は洛市の美醞お備へたりしうへに、七重の絹もて七たび漉たれば、その味ひ清芳にして烈ならず、醒意甚だ快く、かつて宿醒せず、かくて門簾に竹酔館の三大字お書し、外に招牌お掲げて、その面に、此四下物、一則漢書、二則双柑、三則黄鳥一声としるしたり、かゝれば好事の年少つねに往て宴お催す、これによりて来賓たえず、されどもその価は、酒の多寡によりて贏利お貪らず、毎歳春の半にいたりては、桜花の盛開にあたりて、日ごとに大樽酒器お荷担ひて、東山に座お設け、嵐山の江畔に行粥ぎ、また秋の末になりては、霜葉の紅に染る頃ほひ、東福精舎に席おひらき、臨川禅院のあたりに売りありきつゝ、般若湯の三字おしるしたる酒旗お建たるお、遊人の認て、はじめはあやしみ、さては笑ふものもあり、されどもその酒の精好にめでゝ、後にはあらそひ就て飲めりとかや、ことに文人才子其風流お愛し、詩お賦し歌お詠じて、これに贈るもの多ければ、その詩歌おあつめて巻となし、賓客の観に備へけるとぞ、