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酒食論
造酒正長持申様酒のいみじき事はみな、むかしも今も事ふりぬ、さけおこのみてのむ人は、むかしは封戸もましましき、後の世までもかはらけに、ならんとちかひし人もあり、竹お愛せし楽天も、酒おのめとぞ詩につくる、別おおしみし詩の序にも、三百盃とぞすゝめける、桃李の花の盛には天さへえへるけしきなり、花のもとにてすゝめける、樽のまへなる春のかぜ、林間に酒おあたゝめて、紅葉おたくもいとやさし、千とせの春のはじめには、屠蘇白散おのみぬれば、よろづの寿命おふくみつゝ一里の中にはやまひなし、すべて酒おば百薬の、長とぞいしもさだめける、されば万の祝にも、酒おもちてぞ先とする、元服わたまし詩歌の会、むことりよめ取いまゝいり、勝負のざしきにいたるまで、酒のなくてはいかゞせむ、中にも曲水重陽の、えんくわいことにおもしろし、あるひはうかぶる鸚鵡盃、あるひはながれのらんしやうも、みなさか月のゆへぞかし、世継のおきなのことばにも、光さしそふ盃は、もちながらこそ世おばふれ、源氏のおとこになりしにも、みきとぞ是おすゝめける、さ衣の大将二の宮に、さかづきそへてたてまつる、なりひら人おつゝみしにも、うちよりさかづきいだしつゝ、わたれどぬれぬとかきつけて、ちの涙おぞながしける、さればこの世のえいぐわには、酒に過たる物ぞなき、糸竹くわげんやさしきも、酒もりにこそ興はあれ、雪月花おながめても、酒のなきには興もなし、されば天神地祗までも、さけお供ずることぞかし、人にちか付徳も、有、我身おたつる功もあり、心おのぶる道もあり、いくらの美物ありとても、気味とゝのふるれうりまで、酒おはなれてかひもなし、下戸のまれ人得たるこそ、ことばも心もなかりけれ、えしやくなげなるそらわらひ、実法びたるかほつきは、くるひあはんとふるまへど、はがみてこそは見えわたれ、えひぬる後はさるねふり、たま〳〵のみてはひたるがる、かほづえつきてひざおたて、あるにもあらぬけしきかな、さて又すへたるさかなこそ、みぐるしきまでうせにけれ、上戸のくはぬおろしさへ、人めはかりてしのばかす、あはれ上戸のすき物は、たかきいやしきひざおくみ、そのさか月お取かはし、三度も五度も過ぬれば、あはひこぶかき大ちやわん、くろぬり白ぬりあかうるし、わたとつくりの大がうし(合子)、おもひ〳〵にはじめつゝ、しめのみあれのみ一口のみ、はつ春はまづにほふなる、梅の花のみいとやさし、秋もさがのゝ草かれて、露なしうちふり一文字、げうだう(凝濁)なしのふりかつぎ、そばざしひらざしちがへざし、えひす(数)かけとのおもひざし、送り肴の色々に、おき物やりもの引出物、くわんげん乱舞白拍子、たちまひいまひあづま舞、いまやうこ柳しぼりはぎ、神楽さいばらそのこまと、さるがく物まねいろ〳〵に、こは(声)わざほねわざ力わざ、つくさぬ事こそなかりけれ、いかなるなげきのある時も、心ぐるしきおりふしも、よろづわすれて心やる、さかもりこそはめでたけれ、まして祝のある時は、賀酒とてさけおまづぞのむ、上戸は酒にまとひつゝ、世さまわびしと申せども、生れつきたるひんふくは、下戸のたてたる蔵もなし、夏六月のあつきにも、しも月しはすのさむきにも、にはかにあだはらやむ時も、酒おのみてぞなおしける、たとひ失錯したれども、酒のえひとてゆるされぬ、もとより我らは凡夫にて、無明の酒にえひしより、さむるうつゝもえぞしらぬ、かゝるざいあく生死には、中々魚鳥さかなにて、酒おのみたるくちにても、みだの名号となふれば、不論不浄とすてられず、不問破戒ときらはれず、光明遍照十方の、光にいる事うたがはず、南無阿弥陀仏々々々々々々、長持か新酒も古酒もえひぬればねぶつ宗おぞ深く頼める飯室律師好飯申様上戸の徳おあらはして、下戸おわろしとそしれ共、飲とのまぬとくらぶれば、上戸のとかぞつもりぬる、先は仏のみのりにも、五かいの中にて不沽酒戒、さけおばうらずのみもせず、いづれの内外典籍に、酒おのめとはおしへける、〈○中略〉さても上戸の御れうおば、くはでもやまぬ物ゆへぞ、おほくの米穀くさらかし、さけにつくるぞついえなる、〈○中略〉扠又えひのさめがたに、有し事どもはづかしや、二日えひするあしたこそ、つくりやまひになりにけれ、〈○下略〉