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雨窻閑話
奥州泉領孝子〈并〉名君行状の事一奥州泉の領主本多弾正少弼忠籌侯、領分の内に甚孝心の百姓あり、年頃四十余、父はもはや八十にちかし、其孝志是までつひに父の気にさかひし事なく、一図に孝道おつくすこと、いふべくもあらず、〈○中略〉老人若き時よりして冷酒おこのみ、毎日農作に出づる時、先冷酒お茶碗に三つづつ飲み出づる事、一日もかく事なし、〈○中略〉ある日老父いつもの農業より帰りて、玄然として落涙する事あり、孝子其様子ことなるお尋ねけるに、老父の曰く、さればの事よ、今日農作に往きたる所、勿体なき噺お聞きて、有難さに涙こぼるゝなり、殿様には、平日御汁おも御あがり遊ばされず、〈○中略〉御近習の衆、御養生になるまじき由申し上げられしに、か様にして、下々の者おこやしてやりたしとの御意有りし旨おきゝ、誠に身にこたへ、骨に通りて有りがたく、覚えず涙お流して、其方に早くいひきかせ、我らも是迄の酒おやめ申さんとて、急ぎて帰りしなり、あゝ勿体なし〳〵とて、夫より一向に禁酒せりとぞ、