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鶉衣

断酒弁もとより李杜が酒腸もなければ、上戸の目には下戸なりといへども、下戸なる人には上戸ともいはれて、酒に剛億の座おわかてば、おのづからのむ人のかたにかずまへられて、南郭が竽おふきけるほども、思へば四十の年にもちかし、されば衆人みな酒臭しと、世に鼻覆ひたる心はしらず、まして五十にして非お知りしとか、かしこきためしにはたぐひも似ず、近き比いたましう酒のあたりけるまゝに、藻にすむ虫と思ひたつ事ありて、試に一月の飲おたてば、身はなら柴の木下戸となりて、花のあした月の夕べ、かくてもあられけるものおと、はじめて夢のさめし心ぞする、けふより春の蝶の酔心おわすれ、秋のもみぢも茶の下にたきて、長く下戸の楽に老お待べし、さもあれ此誓ひ、みたらし川に御祓もせねば、たとへば仙の一座なりともまねがば、柳の青眼に交り、吸物さかなは人よりもあらして、おなじ酔郷にあそぶべくは、いさ松の尾の山がらすも、月にはもとのうかれ仲まと思ふべし、花あらば花の留守せん下戸ひとり、