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東遊記

塩竈奥州仙台の東北四五里に塩竈といふ町あり、塩竈明神お祭る地故其所の名とす、甚繁花の地にて、家数も千軒に余り、〈○中略〉神代の釜とて玉垣ゆひ廻して、其中に釜四つお並べたり、是お見るに誠に希代の神物也、釜の内皆各潮水お貯ふ、其潮の色赤きあり青きあり紫あり、四つの釜皆潮水の色お異にす、塩水ゆえに此釜の鉄気出て、水の色お変ずるにや、毎年七月十日早暁、社人斎戒沐浴して此潮お汲替る事也、此釜は神物ゆえに、何事にもせよ、此国に変異ある時は、此釜の中の水色、たちまちに変じて奇色おあらはす、往古より毎々しるしありといふ、釜の大さわたり四尺余、深さ才に弐三寸、或は四五寸に不過、皆少しづヽの大小浅深ありて、四つともに同じからず、皆甚浅くして足無く鍔無く、其形たとへば家々常に用ゆる所の丸盆のごとし、全体鉄にて作りたるものにて、其厚さ三寸計もあり、不相応に厚きもの也、実に神代の旧物にして、五百年千年の物にはあらず、伝へ雲、塩竈明神上古の世、此地に降臨まし〳〵て初て、此釜お鋳給ひ、海潮お煮て塩お取ることお人民に教給ふ、今に至るまで、天下塩お食ふ事お得て、明神の徳お蒙る、今に其時の釜の残れる也と、誠にさも有ぬべく見ゆるものなり、されど釜甚厚くして、中々物お煮るの用に立べくもあらず、上古の世富るゆえに薪沢山に、人民閑暇なれば、是程の物も用に立けることにや、いぶかし、又釜殿の三四軒程東の町家の裏に、牛石とて牛の臥たるごとき石あり、是は明神の塩やき給ひける時、其塩お背負たりし牛なりしが、後に石に化したるなりと雲伝ふ、