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紀伊続風土記
物産十下
塩延喜式に、紀伊国塩所々に散見す、〈詳に堤鋼に載す〉古牟婁郡相賀荘中にて、多く塩お焼たりと見えて、正応六年正月の文書に、津本のかま引本のうはちの竈と見え、貞和四年の文書に、木本の西竈とみえ、天正二十年の文書に、引本矢口七つの塩竈と見えたり、又同郡会根荘梶賀浦にても、塩お焼しとて、村の南に塩竈といふ字残れり、海部郡加太浦西荘村辺にも、塩浜等の字残れり、又名草郡神宮下郷中島村に、慶長以前までは塩浜多しといふ、今は同郡五箇荘三葛村の塩、国中第一の佳品とす、村の西雑賀川の東岸、周十三町の塩田あり、其開発の始詳ならず、田所氏に蔵むる文明七年三葛塩年貢沙汰状あり、其製塩田中に細沙お置き、其上に海潮お灑ぎ、其砂数日お経て乾き白色となる、快晴の時此砂お削り集め、山様になして日に晒す、内外乾尽き砂お淘筲に盛り、下に桶お置き、叉海水お汲て其淘筲に注げば、海炉桶中に漏下る、此お煮て白塩となす、是海塩にして上品なり、海部郡雑賀荘和歌浦の製も同品にして、少し劣れり、又名草郡神宮下郷船尾村の新田河内浜の塩は、延宝元年より始めて製し出す、これは塩土お以て採る塩にして、海辺の沙地に堤お築き、其内の地お平にならし置けば、自然と塩ふくなり、毎朝深霜の降るが如し、是お砂と共に集めて、竹簀の上に置き、海水お以て漉し、煎じて塩とす、〈三葛村船尾村の二条お併せ見るべし〉是鹸塩にして色黒みありて粗く、味烈く下品なり、叉牟婁郡田辺荘新荘村の塩も鹸塩なり、又先年和歌浦にて、五色塩お製す、今は止む、