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有徳院殿御実紀附録
十七
沙糖も今は日用かきがたきものとなれば、唐土より来るおまたず、わが国の産おこそ用ゆべけれとて、甘蔗培栽の法おあまねく尋もとめ玉ひしに、享保十二年、松平大隈守継豊が家人落合孫右衛門といふ者、薩摩国よりいで来り、培殖の事ども委く申ければ、其教おうけしめて、浜の御庭にて作らしめ玉ひ、又駿河長崎等の地にも植られ、延享のはじめには専らこの事お沙汰し玉ひ、深見新兵衛有隣〈書物奉行〉等にも仰下されて、天工開物おはじめ、府志県志等の諸書より考あつめられ、また長崎に来りし唐商李大衡游竜順などにも、とはしめられしかば、各製法の事お書て奉れり、吹上御庭の下吏岡田丈助某といへるは、心きゝたるものにて、やゝ製法に熟せり、小姓磯野丹波守政武も仰おうけて吹上にいたり、火候など試し事もありしかど、其ころは土性に応ぜざるゆえにや、唐土のごとく多くは出来がたかりしかど、完政のはじめにいたりては、諸国ともに多く作り出し、唐産よりも盛に行はれ、大師河原などの地にては、氷糖おさへたやすく製する事となりしも、またく此御ときの御心おきての、やう〳〵あらはれぬるにこそありけれ、