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広益国産考

砂糖の事♯砂糖は弐百有余年已前には、高貴の人ならでは知る者なく、下賤のものは見たる事もなきに、元禄時分より、唐黒(たうくろ)といへる一種の黒砂糖〈安永完政の時分までは、唐船もちわたりしが、文化の頃よりはたへてわたらず、今用ふる黒ざたうより砂細かにして上品なり、〉舶来し、其後薩摩の別島喜界(○○)、大しま(○○○)、徳の島(○○○)に作りいだし、大坂へはじめて七八百石づみの船一艘に積登りしお、薬種問屋ども引うけて入札したりしよし、其後追々さかんに来るに依て、右薬種問屋ども本業はかたはらになり、砂糖お多く取扱ふやうなりしゆえ、今は砂糖問屋とばかり唱へ来れり、完政享和の頃、紀州(○○)に多く作り出せしが、製法のくはしからざるゆえ、白砂糖黄色にして、黒砂糖もしまりあしければ、自ら廃せし也、其後に讃岐国(○○○)に作り出せしが、製法上手なれば、三品の上白迄も出来て、一廉の国産となり、大坂へ出すに、其代料幾万両といふ数おしらず、又日向土佐より出す、此三け所は予〈○大蔵永常〉が伝ふる所の製法なれば、極太白も出来、黒砂糖もしまりよく味ひも宜し、援に駿州遠州(○○○○)に多く作りて、江戸へ出し商ふ事火し、然れども伝法あしければ、白砂糖白からず、赤味ありて黒の味ひあり、黒砂糖も煉あげ行届ざれば、夏になれば和らかになり、白砂糖もしめりて砂おなさず、既に昨巳年の冬、駿州にいたり黒ざたうの夏に至りゆるくならざるやう、白砂糖も唐又は讃岐製におとらざる様おしへしかども、悪製に数年屈修したる事なれば、急には直すまじけれども、追々白き砂糖も製し、堅き黒ざたうも製するやうになるべし、♯文政天保の間、駿遠にて製する所の砂糖は、大体江戸へ出し売払ふに、一け年に四五万両とも及ぶべき歟、直段宜しき年は、田に稲お作りたるより、三増倍もありしよし、常の相庭にても稲お作るにはまされりとて、作り弘りけれども、本田はのぞき流水場等の新開に作り出せり、♯砂糖お作れる農人のいへるに、砂糖お作りはじめしより已来、御年貢お納むる事早くなり、未進おいだすものなきやうなりたるとなん、