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塵塚談

倭製の砂糖始りし事、安永の頃迄は異国舶来のみお用ひし事なり、唐土には唐太宗の時、外国nan是お送りける、是よりしてもろこしに始て砂糖ありとかや、平賀源内が述作せし物類品隲に、砂糖の製方お委しく記たり、完政元年の頃、川崎駅葛西さかさ井(○○○○○○○○○)辺にて造りしが、夏に至れば膠飴のごとし、たゞ玩弄にするのみ、商物にはならざりし、然るに近頃は紀伊国四国辺(○○○○○○)にて造り出し、氷砂糖まで製造す、別して讃岐国(○○○)産は雪白の如く、舶来にいさゝかおとらず、文化元年の頃よりして、菓子の類に、商人ども専ら用ゆ、同八九年よりは、薬種屋は、舶来に交て商ふ事になれり、向後異国より来らずとも、吾国に差支さらになし、同十年癸酉には江戸中十の物七八分倭製お用ゆ、近歳迄皆人砂糖に限り、舶来の物とのみ心得たり、農業全書〈元禄九子年の刻本なり〉甘蔗の条に雲、是れ常に人家に用ゆる物なる故、本邦の貴賤財お費す事猶甚し、〈中略〉未そのたねさへ此国になきものなれば、今こゝに略すと載たり、