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十訓抄

二条殿より南京極よりは東は、菅三位〈○文時〉の亭也、三位うせて後年比へて、月のあかき夜さるべき人々、古き跡おしのびて、かしこにあつまりて、月おもてあそぶ事有けり、おはり方に或人、月はのぼる百尺楼と誦しける、人々声お加へてたび〳〵に成に、あばれたる中門のかくれなる蓬の中に、老たる尼のよにあやしげなるが、露にそぼちつゝ終夜聞おりけるが、今夜の御遊いと〳〵めでたくて、涙もとまり侍らぬに、此詩こそ及ばぬ耳にも僻事お詠じおはしますかなときゝ侍れといふ、人々咲ひて、興ある尼かな、いづくのわろきかといへば、さうなりさぞおぼすらん、されど思給ふは、月はなじかは楼にはのぼるべき、月にはのぼるとぞ、故三位殿は詠じ給ひし、おのれは御物はりにて、おのづから承し也といひければ、恥て皆立にけり、是はすゝみて人おあなづるにはあらねども、思はぬ外の事なり、此等までに心すべきにや、薮にはかうの物(○○○○○○○)といへる児女士がたとへ、むねおたがへざりけり、