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小野小町の考
まづ此小町、老て後おとろへさらぼひたりなど雲めるは、玉造小町の事なるお混じていへるなり、小町の名高く、古今集の序に出て、六歌仙などかずまへいふより、一人の事と心得て、玉造といひて別姓なるおもわきまへず、小町とあるお、同人と心得たる疎漏ながら、これお混じていへるは、近き世のみならず、古くは建長のころ記せる著聞集五巻〈三十二丁〉に、小野小町がわかくて色お好みし時、もてなしヽ有さまたぐひなしかりけり、壮衰記といふ物には、三皇五帝の妃にも、漢皇周王の妻も、いまだ此奢おなさずと書たりければ雲々、〈○中略〉次第に落ぶれ行ほとに、はてには野山にぞさすらひけるとあるは、皆玉造小町壮衰書といふ物に出たる事なり、此文一編たれの書たるといふ事おしらず、世に空海の作ともいへり、是はかヽる人実にありて書たるか、又は作文の為に、まうけてつくり出たる趣かは、今知がたし、浦島子伝、貧窮問答、新猿楽記などの類にて、作文の為の仮託なるべし、小野小町にはすべてあづからぬ事なるお、かく著聞集の比より、附会し誤りつたへてより、謡曲にもつくり、小町物語なぞいふ、後世の書なども出来、七小町などいふ俗説もおこりて、皆人さる事のやうに思ふに至れるなり、〈顕昭着古今序注にも、玉造小町といふは別人歟と、うたがひ置たろよし、〉
小野氏系図お見るに、敏達天皇の御子、春日皆子、其子汰徳冠妹子王に、はじめて小野朝臣の姓おたまふ、それより毛人、毛野、永見、峯守、篁、良実つヾきて、その女子二人ありて、一方に小町と小書せり、是まことの伝にや、今一人の女子は、古今集後撰集に、小町が姉の歌あり、此人なるべし、但後撰集には、小町がうまこの歌見えたれども、系図に載せず、うまごあれば、小野も子有し事しらる、さるお俗に小町は陰門(ほと)なかりきなどいふは、玉造小町が、人々につれなくて過しよりいへる附会なるべし、〈○下略〉