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源平盛衰記
十六
菖蒲前事
鳥羽院の御中に菖蒲前とて、世に勝たる美人あり、心の色深して形人に越たりければ、君の御糸惜も類なかりけり、雲客卿相始は艶書お遣し情お係る事隙なかりけれ共、心に任せぬ我身なれば、一筆の返事何方へもせで過しける程に、或時頼政菖蒲お一目見て、後はいつも其時の心地して、忘るヽ事なかりければ、常に文お遣しけれども、一筆一詞の返事もせず、頼政こりずまに又遣し遣しなんどする程に、年も三年に成にけり、何にして漏たりけん、此由お聞食に依て、君菖蒲お御前に召、実や頼政が申言の積なると綸言ありければ、菖蒲顔打あかめて御返事詳ならず、頼政お召て御尋あらばやとて、御使有て召れけり、比は五月五日の片夕暮計也、頼政は木賊色の狩衣に、声華(はなやか)に引繕て参上、縫殿の正見の板に畏て候す、院は良や遥計(しばらく)して御出ありけるが、じつほうの者には、物仰にくければとて、殊に咲お含ませ御座す、何事お被仰出ずるやらんと思ふ処に、誠か頼政菖蒲お忍申なるはと御定あり、頼政大に失色恐畏て候けり、院は憚思ふにこそ勅定の御返事は遅かるらめ、但菖蒲おば誰(た)そ彼時(かれどき)の虚目歟、又立舞袖の追風およそながらこそ慕ふらめ、何かは近付き其験おも弁べき、一目見たりし頼政が眼精お見ばやとぞ思食ける、菖蒲が歳長け色貌少も替ぬ女二人に菖蒲お具して、三人同じ装束同重になり、見すまさせて被出たり、三人頼政が前に列居たり、梁の〓の並べるが如く、窻の梅の綻たるに似たり、頼政よ其中に忍申す菖蒲侍る也、朕占思召女也、有御免ぞ相具して罷出よと有綸言ければ、頼政いとヾ失色額お大地に付て実に畏入たり、思けるは、十善の君はかりなく被思食女お、凡人争か申よりべかりける、其上縦雲の上に時々なると雲とも、愚なる眼精及なんや、増てよそながらほの見たりし貌也、何お験何なるらん共不覚、蒙綸言不賜も尾籠也、見紛つつよその袂お引たらんもおかしかるべし、当座の恥のみに非、累代の名お下し果ん事、心憂かるべきにこそと歎入たる景気顕也ければ、重め勅定に菖蒲は実に侍るなり、疾給て出よとぞ被仰下ける、御定終らざりける前に、掻繕ひて頼政かく仕る、 五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引ぞわづらふ、と申たりけるにこそ、御感の余に竜眼より御涙お流させ給ながら、御坐お立せ給て、女の手お御手に取て引立おはしまし、是こそ菖蒲よ疾く女に給ふ也とて、頼政に授させ給けり、是お賜て相具して仙洞お罷出ければ、上下男女歌の道お嗜ん者、猶かくこそ徳おば顕すべけれと、名感涙お流けり、