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奥州波奈志
丸山
忠山公と申奉る国主の御代に出しは、丸山権多左衛門といふ大男也、これは近き頃の故にや人もよくしれり、この大おとこ江戸見物の為、家老衆のうちのものと成てのぼりしが、大男のくせ道下手也、身はおもし、一日に二足づヽわらじおふみ切といへ共、足に相応せしわらじなければ、やどにつきてわらお打、二足のわらじお作てはかねばならず、二足作仕まへば、はや御供揃といつもふれられ、日中つかれても馬にのれば、足下へつきて馬あゆむことあたはず、せんなく終日あゆみては、又わらじお作りて夜おあかし、やう〳〵江戸へはつきたれど、かくの如くにては、帰らんやうなしとて、すまふとりとは思ひ付たりし、とぞ、一向手おしらず、隻立合て両手にてはねる計なれども、はねられてあしおたつものなかりしとぞ、