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陰徳太平記
五十三
赤松満祐奉殺普光院殿附赤松家盛衰之事
満祐が胸懐に殺逆の機発しけるとかや、され共猶も義教公お恨奉る事、心肝に徹する一事あり、夫お如何にと申すに、義教公の御寵妾は、西の御方とて、満祐が息女にて、鐘愛他に超、其勢ひ御台所の右に出んとす、さるに依て、将軍も満祐おば殊に御心易き者に御待対ありけり、或時赤松お始め、斯波、細川、畠山、伊勢、其外の諸将お召集なせ給て、酒燕の興お催され、酒既に酣に成て、各々今様の音曲己が所得の芸能お取出て、一座嗷々たる折しも、満祐興に不堪、扇おつ取立騰て、鳴は滝の水とぞ謡はれける、満祐勝れて長の土近なる事、晏子、淳于髠にも勝りたれば、人皆赤松の三尺入道(○○○○)とぞ称しける、さるに依て、将軍も酔裏の興に乗じ給にや、勢ほそ〈短身之儀也〉舞は見まいなと、あらぬさまに取囃させ給ける、満祐無念にや思はれけん、扇高く差翳し、将軍の方お屹と見て、備前、播磨、美作三け国持たれば、勢ほしとも思はずと押返し、二三返諷て、足拍子丁々と、さも音高く蹈れければ、其辞気動揺に忿怒の意含て、将軍の御心に感動やしたりけん、満祐吾お慢るなめりと思召、御気色に見えて打しめらせ給ふお、人々様々に執成て、御酒宴は事なく終にけり、