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保元物語

義朝幼少弟悉被失事
去程に内裏より即義朝お被召、蔵人右少弁助長朝臣お以て被仰下けるは、女が弟どもの未多く有けるお、縦幼とも女子の外は皆尋て可失と也、宿所に帰て秦野次郎お召て宣けるは、余に不便なれ共、勅定なれば無力、母か乳母か懐て、山林に逃隠れたらんは如何せん、六条堀河の宿所にある、当腹の四人おばすかし出して、相構て道の程わびしめずして、舟岡にて失へとぞ聞へける、延景難儀の御使かなと、心憂く思へども、主命なれば力なし、涙お袖に収つヽ、泣々輿お舁せて、彼宿所へぞ赴ける、母上は折節物詣の間也、君達は皆座けり、兄おば乙若とて十三、次は亀若とて十一、鶴若は九、天王は七なり、此人々延景お見付て、うれしげにこそ有けれ、秦野次郎、入道殿〈○源為義〉の御使に参て候、殿は十七日に、比叡山にて御様おかへさせ給て、守殿〈○源義朝〉の御許へ入せ給しお、世間も未つヽましとて、北山雲林院と申所に、忍て渡らせ給ひ候が、君達の御事無覚束思召候間、御見参に入奉らんために、具し奉て参らんとて、御迎に参候と申せば、乙若出合て、誠に様かへて御座とは聞たれ共、軍の後は未御姿お見奉らねば、誰々も皆恋敷こそ思侍れとて、我先にと輿に諍被乗けるこそ哀なれ、是お冥途の使とも不知して、各輿共に向つヽ、急げや急げと進みける、羊の歩み近付お、不知けるこそ墓なけれ、大宮お上りに舟岡山へぞ行たりける、峯より東なる所に輿舁居て、如何せましと思処に、七になる天王走出て、父はいづくに御座すぞと問給へば、延景涙お流して暫は物も申ざりしが、良有て今は何おか隠し進らすべき、大殿は頭殿の御承にて、昨日の暁斬れさせ給ひ候き、御舎弟達も八郎御曹司の外は、四郎左衛門殿より九郎殿迄五人ながら、夜部此表に見へて候、山本にて斬奉り候ぬ、君達おも失ひ可申にて候、相構てすかし出し進らせて、わびしめ奉らぬ様にと被仰付候間、入道殿の御使とは申侍る也、思召事候はヾ、延景に仰置せ給て、皆御念仏候べしと申せば、四人の人々是お聞、皆輿より下給ふ、九になる鶴若殿、下野殿へ使お使て、何に我等おば失ひ給ふぞ、四人お助置給はヾ、郎等百騎にも勝りなんずる物お、此由申さばやと宣へば、十一歳になる亀若、誠今一度人お使て、〓に聞ばやと被申ける処に、乙若殿生年十三なるが、穴心憂の者共の雲甲斐なさや、我等が家に生る者は、幼けれ共心は武しとこそ申に、角不覚なる事お宣物哉、世の理おも弁へ、身の行末おも思給はヾ、七十に成給ふ父の病気に依て、出家遁世して憑て来り給ふおだに、斬程の不当人の、増て我々お助け給事あらじ、あはれ無墓事し給頭殿哉、是は清盛が和讒にてぞ有覧、多の弟お失ひ果て、隻一人になして後、事の次でに亡さんとぞ計ふらんおさとらず、隻今我身も、うせ給はんこそ悲しけれ、二三年おも、過し給はじ、幼かりしか共、乙若が舟岡にて能雲し物おと、女等も思合せんずるぞとよ、扠も下野殿討れ給ひて後、忽に源氏の世絶なん事こそ口惜けれとて、三人の弟達にもな歎給ひそ、父も討れ給ぬ、誰か助け御座さん、兄達も皆被斬給ひぬ、情おも懸給ふべき頭殿は敵なれば、今は定一所懸命の領地もよもあらじ、然ば命助りたり共、乞食流浪の身と成て、此彼迷行ば、あれこそ為義入道の子共よと、人々に指おさヽれんは家の為にも恥辱也、父恋敷は隻西に向て、南無阿弥陀仏と唱て、西方極楽に往生し、父御前と一蓮に生れ合奉らんと思べしと、長しやかに宣へば、三人の君達各西に向て手お合せ、礼拝しけるぞ哀なる、是お見て五十余人の兵も皆袖おぞぬらしける、此君達に各一人づヽ乳母共付たりけり、内記平太は天王殿の乳母、吉田次郎は亀若、佐野源八は鶴若、原後藤次は乙若殿の乳母也、差寄て髪結挙、汗拭などしけるが、年来日来宮仕、旦暮になではたけ奉て、隻今お限りと思ける、心どもこそ悲しけれ、去ば声お挙て、叫ぶ計に有けれども、幼人々お泣せじと、押る袖の間よりも、余涙の色深く、つヽむ気色も顕れて、思遣さへ哀也、乙若延景に向て、我こそ先にと思へども、あれらが幼心におぢ恐れんも無慚也、又雲べき事も侍れば、彼等お先に立ばやと宣ひければ、秦野次郎太刀おて後へ乃りければ、乳母ども御目おふさがせ給へと申して、皆のきにけり、即三人の頸前にぞ落にける、乙若是お見給て、少しも不騒、いしう仕つる物哉、我おも左こそ斬らんずらめ、扠あれは何にと宣へば、ほかひお持せて参りたり、手づから此首共の血の付たるお、押拭ひ髪かきなで、あはれ無慚の者共や、加程に果報少く生れけん、隻今死ぬる命より、母御前の聞召歎給はん其事お、兼て思ぞたとへなき、乙若は命お惜みてや後に被斬けると人雲はんずらん、全其儀にてはなし、加様の事お雲はんに付ても、又我被斬お見んに付ても、留りたる幼者の、又なかんも心苦て雲はぬ也、母御前の今朝八幡へ詣給ふに、我も参らんと申せば、皆参らんと雲へば、具せば皆こそ具せめ、具せずは一人も具せじ、片恨にとて、我等が寝たる間に詣給ひしが、下向にてこそ尋給ふらめ、我等懸るべしとも不知しかば、思事おも不申置、形見おも進せず、隻入道殿のよび給ふと聞つるうれしさに、急輿に乗つる計也、去ば是お形見に奉れとて、弟共の額髪お切つヽ、我髪お具して、若違もやせんずるとて、別存に包分て、各其名お書付て、秦野次郎に給ひにけり、又詞にて申さんずる様よな、今朝御供に参なば、終には被斬候共、最後の有様おば、互に見もし見へ進らせ候はんずれ共、中々互に心苦方も侍らん、御留主に別奉るも、一の幸にてこそ侍れ、此十年余の間は、仮初に立離進らする事も侍らぬに、最後の時しも御見参に入らねば、左こそ御心に懸り侍るらめなれ共、且は八幡の御計ひかと思召て、いたくな歎かせ御座候そ、親子は一世の契りと申せども、来世は必一蓮に参逢様に、御念仏候べしとて、今は此等が待遠なる覧疾々とて、三人の死骸の中へ分入て、西に向ひ念仏三十返計被申ければ、頸は前へぞ落にける、四人の乳母ども急走寄り、頸もなき身お抱つヽ、天に仰地に伏て、おめき叫ぶも理なり、誠に涙と血と相和して流るお見る悲み也