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平治物語

義朝青墓落著事
兵衛佐頼朝心は武しと雖ども、今年十三、物具して終日の軍に疲給ければ、馬睡おし野路の辺より打後れ給へり、頭殿〈○源義朝〉篠原堤にて若者共はさがりぬるかと宣へば、各是に候と被答しに、兵衛佐御座さず、義朝無慚やさがりにけり、若敵にや生捕らるらんと宣へば、鎌田尋進せ候はんとて引返し、佐殿や座すと呼り奉れども、更に答る人もなし、頼朝良有て打驚見給に、前後に人もなかりけり、十二月〈○平治元年〉廿七日の夜更がたの事なれば、暗さはくらし先も見へねども、馬に任て隻一騎心細く落給、森山の宿に入給へば、宿の者共雲けるは、今夜馬の足音しげく聞ゆるは落人にや有覧、いざ留めんとて沙汰人あまた出ける中に、源内兵衛真弘と雲者、腹巻取て打懸、長刀持て走出けるが、佐殿お見奉り、馬の口に取付、落人おば留申せと、六波羅より被仰下候とて、既に抱下し奉らんとしければ、髭切お以て抜打にしとヽ被打ければ.、真弘が真向二に被打割て、のちに倒て死にけり、続て出ける男、しれ者哉とて、馬の口に取付処お、同様に斬給へば、籠手の覆より打て被打落てのきにけり、其後近付者もなければ、帥宿ら馳過て安河原へ出給へば、政家にこそ逢給へ、それより打連急たまへば、無程頭殿に追付奉り給、など今迄さがるぞと宣へば、然々の由被申ければ、縦長(おとな)なり共、争隻今角は可挙動、いしうしたりとぞ感じ給、鏡宿おも過しかば、不破関は敵堅めたりとて、小関に懸て小野の宿より海道おば、妻手になして落給へば、雪は次第に深くなる、馬に協はねば物具しては中々悪かりなんとて、皆鎧共おば脱捨らる、佐殿は馬上にてこそ劣給はね共、徒立に成ては常にさがり給しが、終に後れ進せられけり、