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古史徴
一夏/開題記
新撰姓氏録の論〈○中略〉
或古記本系並録載、而枝別之宗、特立之祖、書曰出自、
古記とは、上文にいはゆる古記旧史おいひ、本系とは、いはゆる新進本系なり、並録載とは、古記 本系ともに、録し載せて、彼此よく符ひて紛乱なきおいふ、〈或字より以下九字、今本ともに、而字録載の間に在て、出自の下に記せるは錯乱れるなり、今は一古本に依て註しつ、〉さて遠都於夜(とおつおや)に祖と宗とお立ることは、元漢土の論にて、祖とは始祖(はじめのおや)おいひ、宗とは其次に功徳ありし於夜お雲て、此二於夜お殊に重く祭る事あり、〈此事彼此の漢籍に見えて、彼方の学問する徒の、いみじき事に言さわぐ説どもあり、〉此録にも其号に効ひて記されたり、斯て此の文は、打見たる儘にては一条に見ゆれど、熟く、見れば三例に見別つべく書れたり、〈かヽる文例、漢土の古文にも彼此あるお、皇国の古き漢文は、彼の古文に似て、かゝる文もおり〳〵交れるはいと珍らし、後世の漢学者流わづかに漢世あたりの文、また宋人の文法などお真似び得て、殊更に佶屈なる語な綴り、其お古文辞と称ひて猛き事に思ひ、皇国の古人の漢文お、いと拙き物にいふめれど、古にかゝる文の有とは得知らずぞ有ける、〉其は枝別之宗、特立之祖書曰出自と雲お一例として、譬へば路真人出自諡敏達皇子難波王也とあるは、路真人の家にては、敏達天皇は祖にて、難波王は宗なる故にかく録されたり、〈そは此次に守山真人路真人、同祖、難波王之後也とあるもて、敏達天皇お祖とし、難波王お宗とせること知べし、なほ此類は神別にも、藤原朝臣出自津速魂命三世孫天児屋根命也といひ、添県主出自津速魂命男武乳速命也と見えたるは、藤原の家にては津速魂命お祖とし、児屋根命な宗とし、添県主の家にては、津速魂命お祖とし、武乳速命お宗とする由なり、なほ皇別に、八多真人出自諡応神皇子稚野毛二俣王也、など此類おほく記されたり、さて今本に、諸蕃に此例なもて、牟佐村主出自呉孫権男高也、など書るが多かれども、此にもと呉孫権男高之後也と有しお、後人の思ふ旨ありて、之後字お削りて、出自と書る本の伝はれると所思たり、其由下文の下に註お見て弁ふべし〉、また特立之祖書曰出自お一例として、譬へば大和国地祇に、国栖出自石穂押別命也と書れたる類は、此命より前の祖の名伝はらず、また宗と立べき於夜の名も伝はらざる故に、特この命おのみ祖に立たるお雲へり、〈但し此例は然しも多からねど、皇別にも諸蕃にも彼此あり、心お著て見るべし、〉また枝別之宗書曰出自と雲お一例として、譬へば大和国の天孫に、大角隼人出自火闌降命也と書れたるは、日子番能邇々芸命の御末は、皇統と火闌降命の末とに別れたるお、大角隼人の家に取ては、邇々芸命は祖にして、火闌降命は宗なり、然るに祖お記し出す、宗お挙たるお雲へり、