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政談

子お持たる妾お御部屋(○○○)と名付て、傍輩諸親類にも取かはしおさせ、家来には様付にさせて、其召仕の女房より諸事の格式等お、本妻に左迄違はぬ様にするは不宜こと也、此五六十年以前迄は、箇様には無りしお、御先々前御代〈○徳川綱吉〉の比より始りて、今は世の通例の様に成たり、〈○中略〉妾の子お持たるお御部屋と称して、結構に会釈して、時代の風俗に合す可為に、有職の輩の作事したること明なり、古に母は以子貴と雲るは、其子の代に成てのこと也、御先々前御代未だ御部屋住にて御座ありし時、御家老ども、桂昌院様〈○本庄氏、徳川家光妾、〉へ御登城あるべしと申上たれば、何と名乗てか登城は為べき、大猶院様〈○家光〉の御召仕也と名乗るべきか、館林殿〈○徳川綱吉〉の母也と名乗べきか、何と名乗ても大猶院様のおもぶせ也、館林殿の御面伏也と御意あり、又清陽院様〈○綱重〉の御実母は、折々御登城ありけれども、桂昌院様は遂に御登城なかりしなり、此段某幼少の時に承る、此時分迄は、御女中方も、箇様の理筋お御存知也、今時は左様の理筋絶果たり、此御部屋と雲るもの、多くは妓女風情の者也、夫お寵愛する男も不学にして、然も不智成ば、今は定法の如くに成ぬ、且又大名は、一年替に在所に居ゆへ、近年は公家の女抔お窃に呼寄て、在所に居へ置、本妻の如する類多しと雲、是等も妾お重く会釈風俗より如此なりたり、されば制度お立て、長子お持たる妾おば、家老などの同格にして、召仕の内の貴人と定、其召仕女中より、衣服、器物、家居迄に、微細に制度お立ずは、此悪風は止べからず、家康公の御妾七人衆とて有、駿府より毎年御鷹野に金け原へ御成の時、七人衆御供也、女一人も連られず、馬にて御供成故、江戸に暫御滞留の内は、某〈○荻生徂来〉が曾祖母の許へ女お借りに来りては貸して遣れ、曾祖母も、折々七人衆の御部屋へ行留り抔して、東照宮おも見奉ると、父祖母の物語にて承る、此七人衆と申は、三家の御方には、何れも御実母様にて、重き御事なりしかども、其御代は如此にて有し事也、