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身体は、みと雲ひ、むくろと雲ひ、後又からだとも雲ふ、又之お四体と雲ふは、原と支那より出で、五体と雲ふは、印度に起りたるが如し、而して死骸は之おかばねと称す、
身体の各部は、各々特殊の作用お有し、随て其名称も亦極めて多し、就中頭髪には、垂髪、結髪、剃髪総髪等の別ありて、年齢若しくは時代場所等に由りて、各々其称呼お異にし、今容易に之お識別し難きものあり、
垂髪は、我邦最古代の風なれども、男子は夙に之お頭上に束ねたりしが如し、天照大神、神功皇后等の、特に事ある時は、男子に擬して、髻お作り給ひし事あるお見て知るべし、天武天皇十一年、詔して、天下の民、婦女悉く結髪せしめしが、十五年に至りて、女子は再び悉く垂髪せしむ、宮中其他貴族の男女は、後世に至るまで、一に此風お守れり、されど普通の婦女は、作業の為に、之お束ぬるの風漸次に起り、而して其結髪の風、又次第に美容お尚び、遂に種々の髻形お生じ、徳川幕府時代に至りては、非常に多くの名称お生じたり、而して男子結髪の風は、古来大抵一様なるが如きも、中世戦乱の時、武士甲冑お帯するより、逆上お防ぐが為め、頭髪の一部分お剃るの風起り、之お月代と雲ひて、徳川幕府時代に至りては、若年のものは月代お剃らず、特に之お総髪と雲へり、小児の髪は、胎髪お苅るお以て通常と為し、爾後二歳迄は多く之お剃るの例なり、或は後世頭上に少許の毛お残すお罌子坊主(けしばうず)と雲へり、三歳にして髪お蓄へ、其年の誕生日に之お垂る、而して男子は、其後之お額に束ぬ、之おみづら、又はひさごばなと雲り、又女子は、垂髪の初おめざしと称し、其髪長じて肩の辺に届く時は、之おうないごと雲ひ、十三四歳に至り、其髪更に長じて帯の辺に至れば、うないばなり、又はわらはと雲ふ、古は頭髪の黒く長きお尚び、其長さ身長お超ゆるもの多し、又縮毛お忌み、自髪お忌む事、古今相同じ、又髪薄きものは、義髪お為せり、
髭は古来之お蓄ふるの風なりしが、武家の世に至りて、益々之お尚び、其之なきものは、作り髭お為せり、されど徳川幕府中葉以後は、世太平に狃れて、人心漸く柔弱に赴き、髭あるものは、却て人に憎まるヽ如き事ありしと雲ふ、
身体には、希に種々の奇形お為すものあり、而して其甚しきものに至りては、一身両面のものあり、四足四手の者あり、身体に翼あるものあり、頭上に角お生ずる者あり、全身軟弱にして恰も骨無きが如きものあり、或は一部分の不足するものあり、之お総称して片輪と雲ひ、又不具と雲ふ、
此篇は、方技部疾病篇に関聯する所多し、宜しく参照すべし、