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源平盛衰記

成親已下被召捕事
西光は天性死生不知の不当仁にて、入道おはたと睨返して、西光全く謀叛の企お不存、此恥にあふ事運の窮にあり、但耳に留事あり、侍程の者が靭負尉にもなり、受領撿非違使に至らん事、何か過分なるべき、始たる事に非ず、去てかく宣ふ和入道は、いかに王孫とこそ名乗給へども、昔の事は見ねば知ず、御辺の父忠盛は、正しく殿上の交お嫌れし人ぞかし、其嫡子にておはせしかば、十四五までは叙爵おだにも不賜、しかも継母には値たり、難過かりければこそ、中御門藤中納言家成卿の播磨守にておはせし時、受領の鞭お取、朝夕に柿の直垂に、縄緒の足駄はきて通給しかば、京童部は高平太と雲て咲しぞかし、其お恥しとや思給けん、扇にて顔お隠し骨の中より鼻お出して、閑道お通給しかば、京童部が先お切て、高平太殿が扇にて鼻お挟たるぞやとて、後には鼻平(○○)太々々々とこそいはれ給しか、去ども故刑部卿殿近江国水海船木の奥にて、海賊廿人お被搦進たりし、勲功の賞に依て保延の比かとよ、御辺十八歟九歟にて、四位の兵衛佐に成給たりしおこそ、人々としと申しが、其が今太政大臣に成たるおこそ、下臘の過分とは申べき、此条は争か諍給べきと、高声に門外まで聞よと雲たり、