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安斎随筆
前編六
歯くつる 源氏物語さか木の巻に、御はのすこしくちて、くちのうちくろみて、えみ給へる、かほのうつくしきは、女にて見奉らまほしきやうなり雲々、是は春宮のおさなきさまおいふなり、御はのすこしくちてと雲ふ事、抄物には何とも註せず按ずるに、歯の朽てといふは、乳吸歯とも雲ふて、小児の歯のはへかはらぬ以前は、むかふ歯の色、青黒くさびたるやうに見ゆるいふなるべし、さればこそ、口のうちくろみてとはいへるなれ、又雲く、右の文おわろく心得て、男子の鉄醤付くる事と聞べからず、大に違ふなり、紫式部の頃、女のかね付くる事はありけれども、〈紫式部日記、栄花物語等に見えたり、〉男のかね付くる事はなかりし也、男のかね付る事は、鳥羽院の御代より始れるよし、海人藻芥に見えたり、鳥羽院と左大臣有仁公と仰合されて、衣文といふ事はじまり、男のかね付くる事も、眉作る事も始りたり、是れ皆君臣ともに好色より事起りしなるべし、それより以前に、男はなき事なり、公家の衆は、今も専ら男にてかね付けらるヽ風俗となれり、上古より公家には如此と思ふ人あり、さにはあらず、
○按ずるに、歯黒の事は、礼式部鉄槳始篇に在り、