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当世武野俗談
本石町鐘撞の娘轆轤首
世に不祥の名お取る事、古今ためし有、つれ〴〵草にも、栗のみ喰て、穀の類お喰ざる娘有と書り、今本石町の鐘撞の娘生甚美敷、され共幼少の時分より、世間にて雲けるは、此娘はろくろ首(○○○○)なりと、誰いふ共なく申出したり、十一十二の頃より子ども連立て、手習に通ひける、是もと至極きれいに色白くして、ぬき衣紋に著なしあるきし故、首筋長きやうに見へたり、金吹町手習指南馬場条助方へ通ひけり、名はおつよと雲けり、嫁入頃に成て、人のいふ所、凡鐘撞といふ者は、至て罪深き者にて、自然と人の恨お請るなり、仍て其女轆轤首たり、いか程も金付べし抔いへども、貰んと雲人なしと、江戸中に取沙汰するといへども.其証なし、皆是空事なり、以前入婿お取しに、二人寝の新枕過て、夜更人静まりて、おつよが寝姿うるはしく、婿は目お覚し見とれて、灯火おかき立たりしに、おつよが首自然とぬけ出て、六尺屏風の上へ其首上りけると雲ふらして、貰はんと雲人もなく成しが、時節有て、去年戌四月、神田白壁町山口丈庵と雲医師、活気者にて、ろくろ首にても苦からず、貰ふべしとて婦妻とす、随分おつよ、女業かけたる事なく、夫婦中むつましく、当三月一子おもふけたり、轆轤首も時節有て、平愈するものか、但医師丈庵が、匕先の宜する所か、今は目出度、いもせの枝葉栄へて居たりけり、