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蒹葭堂雑録

安永三年、東武より曲屁福平といへる者、浪花に上り、道頓堀において、屁の曲撒(きよくひり)お興行し、古今無双の大当なりし、猶屁の曲といへるは、昔より言伝へし階子屁、長刀屁などいへるものは更なり、三絃、小唄、浄瑠璃にあはせ、面白く屁お放わけたり、実に前代未聞の奇観なり、委くは風来山人の放屁論に見へたり、是お以て証とすべし、放屁論雲、先頃より両国橋の辺に、放屁男出たりとて、評議とり〴〵町々の風説なり、夫熟惟ば人は小さき天地なれば、天地に雷あり、人に屁あり、陰陽相激する、の声にして、時に発し時に撒るこそ持まへなれば、いかなれば、彼男むかし言伝へし階子屁、数珠屁は言も更なり、碪、すがヽき、三番叟、三つ地、七草、祗園囃、犬の吠声、鶏屁、花火の音は、両国お欺き、水車の音は淀川に擬す、道成寺菊児童、端歌、めりやす、伊勢音頭、一中、半中、豊後節、土佐、文弥、半太夫ぱ外記、河東、大薩摩、義太夫節の長き事でも、忠臣蔵、矢ろの渡、のぞみ次第、一段づつ、三絃浄瑠璃に合せ、比類なき名人出たりと聞よりも、見ぬことは咄しにならずと、いざ行て見ばやとて、二三輩打つれて、横山町より両国橋の広小路に渡らずして、右へ行ば昔語花咲男とことごとしく幟お立て、僧俗男女押あひへし合ふ中より、先看板お見れば、怪しの男、尻おもつ立たる後に、薄墨に隈どりし彼道成寺三番叟なんど、数多の品お一所によせて画きたるさま、夢お画く筆意に似たれば、此沙汰しらぬ田舎者の、もし来かヽりて見ならば、尻から夢お見とや疑はんとつぶやき作ら、木戸おはいれば、上に紅白の水引ひきわたし、彼放屁男は、囃方と共に小高き処に座す、其為人中肉にして色白、三日月形の撥鬢奴.縹の単に緋縮緬の繻伴、口上さはやかにして、憎気なく、囃に合せ、先最初が目出度三番叟屁とつはいひよろ〳〵、ひつ〳〵〳〵〳〵と拍子よく、次が鶏東天紅おぶうぶつと撒わけ、其あとが水車ぶう〳〵、〳〵と放ながら、己が身お車がへり、さながら車の水勢に迫り汲ては移す風情あり、さあ入替り〳〵と打出しの太鼓と、共に立出雲々、是は浪華へ上る以前、江戸両国橋の辺にて興行せし評判なり、右にて其芸品の大概お推て知べし、猶大入大繁昌にて、諸の芝居お撒潰せしよし、同書に見へたり、放屁論雲、〈上略〉加様の曲庇お放ことお聞ず、又仕掛ならんとの疑ひ、猶に似たれども、竹田の舞台に事かはり、四方四面のやりはなし、しかも不埒の取しまり、何に仕掛の有とも見えず、数万の人の目にさらし、仕掛の見えぬ程なれば、譬仕掛ありとても、真に放と同前なり、衆人真に放といはヾ、其糟おくらひ、其泥お濁らして放と思て見がよし、扠つく〳〵と按ずれば、斯世智辛き世中に、人の銭おせしめんと、千変万化に思案して、新しき事お工とも、十が十、餅の形、昨日新しきも今日は古く、固古きは猶古し、此放屁男ばかりは、咄には有といへども、眼前見ことは、我日本神武天皇元年より、此年安永三年に至つて、二千四百三十六年の星霜お経といへども、旧記に見へず、言伝にもなし、我日本のみならず、唐土、朝鮮おはじめ、天竺、阿蘭陀、諸の国々にも有まじ、於戯思ひ付たり、能放たり雲々、