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歴世女装考

神代よりの髪の風一変したる事
神代の女の髪の風は、まへにもいへる如く、天照大御神の御髪も、御髻お一つ結て、うしろへたらし玉ふる状、神代巻お証とすべし、此風後にもつたはりたる事は、人皇十五代神功皇后、三韓お征し玉はんとて、筑紫の浦にて御勝利お神祗に所玉ひ、験あらば此髪分れて両となれとて、御髪お解玉ひ、海に濮ぎ玉ひしかば、髪おのづから分て両と為しお、そのまヽ髻となし玉ひて、仮に男の貌となり玉ひし事、日本紀の神功皇后の巻に詳なり、是にても女の髪はひともとにゆひ、男は両に綰結、禅代の風の不変(かはらぎりし)ぞしらるヽ、此男女の髪の風斯てあり歴し事、天七地五の神代より、人皇三十九代天智天皇の御代まで不変しに、天武天皇の御代にいたりて一変せし事は、日本紀天武〈巻下〉に、白鳳十一年三月の詔曰、自今以後男女悉結髪とあり、本居大人が古事紀傅〈巻七〉に、天照大御神仮に丈夫の御装束お為賜事の註に、右の文お引て曰、上代に結(あぐ)といひしは、本お一つにあつめ挙て結て、其末は後へ垂したりけんお、彼詔に結(あげ)よとあるは、頭上に結綰て髻となすおいふなるべしとあり、是日本にて女の髪お結ふ起原なり、さて右の御制ありてのち二年たちて、男女四十以上髪之結不結任意と在て、又二年たちて〈十五年〉の詔に、婦女垂髪于脊猶如故とあり、おもふに此比及天変地妖うちつヾき、且又御悩の事などもありしゆえ、神代よりの髪の風おあらため玉ひしお、かしこみ玉ひて再故に復玉ひけんかし、〈本居大人が玉かつま巻十四の説〉此後十九年たちて、文武天皇の御代慶雲二年十二月の詔に、令天下婦女自神部斎宮宮人及老嫗皆髻髪とあれども、垂髪する人もまじれる御制なれば、紛れもして其世の習ひのまヽには改らざりけんかし、中昔の物語書にみえたるやう皆すべし髻(もとどり)にて、髪あげするは、唯大宮〈禁中〉にてことヽある時のわざなり、〈本居の説〉いと〳〵正しくは慶雲の時の御制お用しなるべし、