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万葉考
別記二
凡古への女の髪のさま、末にも用あれば、委しくいはむ、そも〳〵幼きほどには、目ざしともいひて、ひたひ髪の目おさすばかり、生下れり、それ過て肩あたりへ下るほどに、末お切てはなちてあるお、放髪(はなりかみ)とも童放(うないはなり)とも、うない児ともいへり、八歳子(やとせご)と成ては、きらで長からしむ、それより十四五歳と成て男するまでも垂てのみあれば、猶うないはなりともわらはともいへり、〈○中略〉
上つ代には、男の髪は頂に二ところゆひ、女は頂に一所にゆひつと見ゆ、そののちまでも髪あげせしお、いと後に垂し事有か、天武天皇紀に、髪お皆結せられし事有て、又故の如く垂髪于背(すべしもとヾり)せよとの御制あり、さて持統天皇紀には、いかにともなくて、文武天皇の慶雲二年の紀に、令天下婦女、自非神部斎宮人及老嫗、皆髻髪〈語在前紀、至是重制也〉とあれば、其後すべてあげつらん、かくて今〈の〉京このかたの書には、ともかくも見えず、もの語ぶみらには、専ら垂たる様お書たり、隻続古事談てふ物に高内侍雲々、円融院の御時、典侍辞しけれども、ゆるされざりければ、内侍所に屏風おたてヽさぶらひて、申す事有時は、髪おあげて女官お多く具して、石灰壇にぞ候けるとあり、後に垂る御制あらばかくあらんや、あぐるこそ後までも正しとせしこと知べし、うつぼ物語の紀伊国吹上の巻に、女は髪あげて、唐衣著では御前に出ずといひ、国ゆづりにも皆髪あげすと見えたり、かくてそのあげたる形は、内宴の様書たる古き絵に、舞妓の髪あげたる形と、御食まいらする采女が、髪あげたるひたひの様、うなぢのふくらなど、大かたはひとしくて舞妓は宝髻おし、采女はさる飾せぬ也、且和名抄に、仮髪〈須恵〉以仮覆髪上也といひ、蔽髪〈比多飛〉蔽髪前也といへり、雅亮が五節の事書るに、おきびたひ、すえびたひといへるも是也、かの舞妓のひたひの厚く中高きと采女がひたひのいと高からぬに、此二つのわかち有べし、凡は紫式部日記に髪あげたる女房の事お、からの絵めきたりと様に書しもておもひはかるべし、
巻四((頭註))〈今十一○万葉〉に、おほよそは、たが見んとかも、ぬば玉の吾くろ髪お、なびけてあらんどよめるは、少女の髪あげせぬ前は、いと長くこちたければ、私にまきあぐる事もある、故にいふと見嫂、譬ば、おちくぼ物語に、あこぎが一人して、よろづいそがしきには、髪おまきあげてわざするに、主の前へ出るには、掻下して出し事有が如し、いせ物語の高安の女の、髪お巻上て、家児の飯もりしも是也、此くさ〴〵お分ていはヾ、うるはしく髪あげするははれ也、たれておるは常也、まきあぐるといふは私也、