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歴世女装考

宝髻(はうけい)といふ髷
唐土は、国の開避より、女も巻髪風俗なるゆえ歴世に髪の結ひやうに名ある事、彼国の書どもに散見する処枚挙に徨あらず、御国は神の御代より、女は垂髪なるから、髪のゆひやうに名ありし事さらになし、然るに人王六十代醍醐天皇の御世にいたりて、結髪するに宝髻といふ名、始て延喜式〈衣服令の下〉にみえたり、されど宮女皆宝髻なるにはあらず、内親王内命婦礼服の時は宝髻なり、支註に、一品已下五位已上宝髻お去るとあり、此宝髻の事お令義解に、宝髻とは金玉お以て飾物なり、是乃神代の余風なりといへるは、神代は男女とも髻に殊お飾る事、前にいへるが如し、さて此宝髻の形状は、安斎随筆〈赤鳥の巻〉に上つ代の結髪といふは、垂髪お頂の上へとりあげて、瘤の如くにしてそれお結て、釵子お刺なりといはれたり、雅亮装束抄に、釵子の刺様くはしくみえたれども、宝髻の事はみえず、たヾ釵子につけてある紐お頭にいふしかたおくはしくしるしあるおおもへば、宝髻なりし事推てしらる、いと後の物ながら、さいしおかざりたる図おこヽに出して、栄花、源氏、枕のさうし、式部が日記などにもさいしさして雲々とある、そのさま宝髻のゆひぶりおもしらしむ、
右の図〈○図略〉ある女官服章といふ書の奥書に、宝暦十三年癸未五月廿七日平貞丈とありて、或 縉紳家の御本お写されたるよし也、書中の事どもは室町殿比といふ、貞丈先生の註釈あり、さ れば、かの宝髻の形状の一証とすべし、
○按ずるに、宝髻の事は、器用部容飾具篇に在り、参看すべし、