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歴世女装考

島田髷の始原
兵庫の後、島田といふ結風おこる、此ふり慶長より明暦あたりまでの雑書どもには、名も図もみえざれど、寛文の中ごろより起りしならん、万治二年板、浅井了意が作、東海道名所記、〈巻三〉大井川の条に曰、島田よりこヽまでかヽれど、つひに歌袋の緒がとけぬといふ、馬かたきヽて、島田の事ならば、髪おゆふたる事およみ玉へかしといふ、是に心つきて、はたごやの女はちりのつくも髪せめて島田に結よしもがな、とよみたり、げに〳〵春元の句に、名にゆふやげにも島田の柳髪、といへる面影はべるとて、たどり〳〵男の騎たる馬のしりにつきてゆくとあり、前に引たる貞享三年の婦人養草に、髪に島田兵庫などいふは、遊女のある所の名おかりていふとある説に符合す、又享保十九年板、菊岡添涼が作、世事談、〈巻五〉島田といふは、東海道島田宿の女つねに此髪の風お結ひける、それゆえに此名ありといへり、按に宝永七年板、寛闊平家物語〈巻一〉に、正保慶安の比、東海道の茶汲女の名高きおならべいふ所に、鈴下嶺のおふり、坂の下のお竹、関の小万、桑名のおしゆんなどならべいへれば、島田にもさるものありて、髪の一風おゆひはやらしヽもしるべからず、なにヽもあれ田舎の女がゆひはじめたる髪の風、二百年すたらず、天下歙然として島田なるは、女装中の一奇事なり、〈○中略〉寛文五年板、古今夷曲集に、大井川ながれおたてヽ住宿の島田たちにし髪もゆふ君〈保友〉又元禄九年板、女重宝記〈按に此書新古二板あり〉巻一に、髪の風おならべいふ所に、町風は京も田舎も島田かうがい髷の二いろ、上臘も下臘もいふ事、七八十年此方におよべりとあり、按に元禄九年より八十年前は寛永四年也、此比ひにはいまだ島田の名も図も物にみえず、されど右に引たる寛文五年の保友が夷曲などお参考すれば、島田髷の起れるは、今よりおほかた二百年前なるべし、其風今に盛にして、錦殿蓬窻.島田ならざるなきは、いと〳〵めでたき髪の風にぞありける、元禄の間には、大島田(○○○)、やつし島田(○○○○○)、しめつけ島田(○○○○○○)、なげ島田(○○○○)など、皆状によるの名なり、此他にも、玉むすび(○○○○)、吹あげ(○○○)、つり船(○○○)、猶さま〴〵の髪の風はやりし事、物に見えたれど、うるさければもらしつ、